【1分でわかる】羊衜:呉の知略家が見抜いた諸葛恪と二宮の変の悲劇【徹底解説】

羊衜

1分でわかる忙しい人のための羊衜(ようとう)の紹介

羊衜(ようとう)、字は不詳、出身は荊州南陽、生没年(211年~?)
※羊祜の父とは違います。

羊衜は呉の重臣であり、知識と弁舌、人物鑑識に優れた人物として知られる。若くして太子孫登の賓客に選ばれ、諸葛恪・謝景・范慎らと共に学問と議論に励んだ。
黄武四年(225年)には蜀の使臣費禕と論争を行い、その弁舌で名を高めた。後に太子中庶子へと昇進し、廷尉監隠蕃が豪傑と結託する中で交わらなかった三人の一人として、その清廉さが際立った。

人物批評では諸葛恪らを辛辣に評し、後年その洞察が的中したと称賛された。さらに、呂壱専権の時には李衡を推挙して悪政を打破し、国を救った。

赤烏元年(238年)には公孫淵救援に向かい、晩年は孫和・孫覇の不和(いわゆる二宮の変)に際して諫言を上奏し、賢臣としての直言を貫いた。桂陽太守として在任中に没したと伝えられる。

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羊衜を徹底解説!諸葛恪、隠蕃を見抜き、孫和・孫覇の争い(二宮の変)を諫めた孫呉の賢臣

若き日の羊衜、その言葉の鋭さ

黄武四年(225年)、蜀の諸葛亮が南征を終え帰還すると、使者・費禕が呉に派遣された。 孫権はまず、冗談をこめて費禕をからかった。言葉の刃をちらつかせ、相手の反応を窺うわけだ。 それを見守る席で、諸葛恪や羊衜らは鋭い論を以てその本性を試さんとした。 だが費禕は動じなかった。穏やかな口調と揺るがぬ理義で応じ、最後までその立場を崩さぬ。 その場で羊衜の弁舌は初めて「ただ者ではない」強さを示し、名が人々の間に広がった。

そして彼は、太子・孫登の賓客として迎えられた。 宮廷の宴席において、言葉を操る者としての第一歩を踏み出したのである。

若き羊衜、隠蕃の言葉を見抜く

嘉禾年間(230年前後)、羊衜はまだ二十そこそこで、太子・孫登の中庶子に抜擢された。 学識と判断を兼ね備え、太子の政務を補佐する若獅子として宮廷に顔を出していた。 その折、廷尉監の隠蕃という男が賢者のような言辞で注目を集めていた。衛将軍・全琮ら高官も彼の饒舌に惹かれ、潘翥などは礼物を重ねて交を深めようとしていた。

しかし羊衜、潘濬、楊迪の三人は、派手な饒舌ショーには乗らなかった。 彼らは隠蕃の言葉の裏側を冷ややかに見つめ、野心を感じとって距離を置いたのである。周囲は「どうして三人だけ関わんのか?」と首をかしげたが、隠蕃が内通者だと発覚すると、羊衜らの判断力に賞賛の声がやまず。 この件で、羊衜は若年にして清廉の士として名を立て、太子中庶子としての信頼を確たるものとしたのであった。

羊衜の直言、諸葛恪らを評す

太子・孫登のもとには、雄弁と才識を競う賓客たちが集まっていた。ある時、孫登は侍中・胡綜に命じて賓客の人物評価を行わせた。
胡綜は四人をこう評した。 「英才卓越にして群を抜くは諸葛恪、時機を察する明敏さに長けるは顧譚、弁説に優れ人の心を解くは謝景、学問を究めて聖賢に比すは范慎」、聖人四天王のような配列である。

これを聞いた羊衜は私的に首を振り、次のように語った。
「元遜才而疏,子嘿精而狠,叔發辯而浮,孝敬深而狹。」
元遜(諸葛恪)は才あれど思慮浅薄、まるで軽石の器のよう、
子嘿=子默(顧譚)は剃刀の刃のごとく鋭いが、血を通さぬ冷鉄男、
叔發(謝景)は耳触りのいい言葉ばかりを並べる、空っぽの語り部、
孝敬(范慎)は知識は深いが、井戸の水のように狭き見識。
評は鋭すぎて、多くの聴衆に刺がささり、諸葛恪達からは白い目で見られ、疎まれることとなった。

だが年月が過ぎ、四人がいずれも官途で失敗し、晩節を汚し、功績は散逸した。
すると、人々はあの毒のように正確な言葉を思い出した。
「羊衜の言は、後年の徴象を先に見る光なり」として、彼の慧眼は語り草となった。
※范慎は失脚せず引退し、謝景は喪の為に職場を離れているが、後に許され復職しているので、半分合って、半分間違っている。

言葉を飾らず、虚飾をそぎ落として核心を射抜く。羊衜の人物評は、苦味を帯びた真実の刃であった。

李衡を推挙して悪臣呂壱を討たせる

羊衜は、武昌へと移ってきた李衡を目を細めて一言。
「尚書の才がある」
当時、孫権の側近には呂壱という男がいた。彼は「校事」という肩書きを盾に、朝廷で好き勝手していた。 権力を振りかざしては人を陥れ、法を弄んで、宮廷の空気を腐らせていた。
被害者は顧雍、刁嘉、朱拠(朱據)といった面々。

誰もが口をつぐむなか、「あの呂壱を止められるのは、李衡しかいない」と羊衜は思い孫権に推薦した。 孫権の召しを受けた李衡は、すぐさま呂壱の悪行を数千言にわたって並べ立てた。
賄賂、私刑、讒言、虚偽といったもう「悪事の総合商社」みたいな内容である。
場が凍る中、李衡は一歩も退かず、淡々と罪状を明らかにした。 孫権は最初こそ聞き流していたが、次第に眉をひそめ、ついには愧色を浮かべた。
つまり、「これはあなたの恥ですよ」と遠回しに突きつけられたようなものだが、孫権は怒らずむしろ深く感じ入ったという。

数ヶ月後、呂壱の悪事はすべて暴かれ、ついに処刑が下された。 この出来事により、羊衜は先見の明ある識者として名を高めた。彼の眼力は、人物の真価を見抜き、国家の危機を救うものであった。

公孫淵討伐の進言と遠征

赤烏元年/景初二年(238年)、遼東の太守・公孫淵が曹魏からの待遇に不満を抱き反旗を翻す。今回は「燕王」を自称し、魏からの離反を宣言する。しかし魏は司馬懿を討伐に差し向けた。これに焦った公孫淵は、かつて呉と魏を天秤にかけておいて、呉に助けを求めてきたのだった。

呉の朝廷では当然ながら怒号が飛び交った。「あんな裏切り者の使者など、その場で斬るべきだ!」という声も少なくなかった。だがその空気を一人で裂いたのが、羊衜で「使者を斬れば、その瞬間は気が晴れます。しかしそれは覇者の気ではなく、匹夫の怒りに過ぎません」と述べた。
さらに羊衜はこう続けた。
「もし魏が討ち損じれば、その時こそ呉が動いて恩を売る好機。仮に魏と遼東が膠着すれば、呉が後から果実を摘めばよい。」
実に老練な視点であった。

孫権はこの進言に大いに頷き、赤烏二年(239年)、羊衜・鄭冑・将軍孫怡らを海路から遼東へ派遣する。だが時すでに遅しで、司馬懿の軍はすでに公孫淵を滅ぼし、襄平の城も徹底的に破壊された後だった。 呉軍は辛うじて魏の守将・張持・高慮らを退け、民を保護して帰還した。この一件で羊衜の冷静な戦略判断は高く評価されたが、軍事的には成果と呼べるものは薄かった。

二宮を案じて最後の諫言

赤烏五年(242年)、羊衜は始興太守の座にあった。 南海太守・鍾離牧なる男が、長年歴代太守が捕らえられなかった賊数千を帰順させたという噂を聞いて、羊衜は「これは只者ではない」と筆を執った。 太常・滕胤宛てに送った奏疏には、「鍾離牧は威信・恩義を兼ね備え、智勇清廉。彼こそ古人の佇まいを保つ将なり」と、密かにその才を讃える文が綴られている。

孫登が赤烏四年(241年)に死去したことにより、赤烏五年(242年)から太子孫和と魯王孫覇の不和が激化し、「二宮の変」が勃発する。孫権は断を下し、兄弟間の賓客の往来を禁じた。

だが羊衜は無言で見過ごせず、長文の上疏をもって諫め、「古の帝王は子弟を封じて宗を守り、藩屏を立てて国を安んじました。今二宮を隔離すれば疑念は国内外に及び、陛下は咎を招きましょう。両宮は智と徳を兼ね、名声は外に顕われています。もし禁を続ければ、外部の謗り・内部の不安から天下の目は離れまます、」とも述べた。

要するに「宮中で皇子を閉じ込めるようなことをすれば、『もしかして何か悪いことでも?』という噂が天下に広がる。評判が悪くなる前に、再び皇子たちの交流の場を設けないと、火を消すつもりが火に油を注ぐようなものだ。」
だがその諫言は採り上げられず、宮廷の亀裂は癒えなかった。

その後、羊衜は桂陽太守に異動し、任地において職責を全うしたのち世を去った。正論を曲げず、忠を尽くしたその生涯は、呉の士人に深い尊敬を残した。

参考文献

羊衜のFAQ

羊衜の字(あざな)は?

史書には羊衜の字は記録されていません。

羊衜はどんな人物?

弁舌に優れ、人物鑑識に長けた賢臣です。権力に媚びず清廉で、正しいと信じた意見を貫く人物でした。

羊衜の最後はどうなった?

桂陽太守として在任中に亡くなりました。没年は明確ではありません。

羊衜は誰に仕えた?

孫権に仕え、呉の朝廷で活躍しました。

羊衜にまつわるエピソードは?

太子孫登の賓客として諸葛恪らを批評し、後にその評価が的中したことや、呂壱粛清の際に李衡を推挙して成功に導いた逸話が有名です。

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