【1分でわかる】唐咨:呉の名将から魏の将軍へ転じた波乱の軍歴【徹底解説】

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1分でわかる忙しい人のための唐咨の紹介

唐咨(とうし)、字は不明、出身は徐州利城、生没年(?~?)
三国時代の武将で、はじめ利城の反乱で推戴されて首領となり、魏の討伐を受けて海路で呉に亡命した人物である。 嘉禾四年(235年)から嘉禾五年(236年)にかけて呂岱・吾粲と共に山越討伐で戦功を挙げ、赤烏二年(239年)には廖式の乱鎮圧にも参加した。

建興元年(252年)の東興の戦いでは留贊・呂拠・丁奉らと前鋒を務め、左将軍・封侯・持節に至った。五鳳三年(256年)には淮泗方面作戦に動員され、孫峻死後の政変では孫綝の命で呂拠討伐に加わった。翌年(257年)に諸葛誕が寿春で魏に叛くと、呉救援軍の一員として出動したが敗北して生捕となり、魏に降って安遠将軍を拝命した。景元六年(262年)には司馬昭の命で浮海大船の建造に関与したと伝えられ、以後の事跡は詳らかでない。

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唐咨を徹底解説!呉の前将軍から魏の安遠将軍へ。呉と魏のはざまを生きた将軍の生涯

利城の反乱と呉への亡命

唐咨が歴史の記録に刻まれたのは、武勲でも献策でもなく、地方の叛乱だった。黄初年間(225年頃)、利城郡で蔡方という男が反旗を翻し、太守・徐箕を殺すという大胆な事件が起きた。
その混乱の中、地元の有力者だった唐咨が人々に推され、反乱軍の指導者として担ぎ出されることになる。望んだか否かは不明だが、彼は結果的に利城の顔となった。

これを聞いた魏の皇帝・曹丕は即座に対応を命じ、任福、段昭、王淩、呂虔といった歴戦の将たちを討伐に送り込んだ。魏軍は四方から利城へと押し寄せ、反乱軍を包囲する。
もはや無名の地方豪族では太刀打ちできる相手ではなかった。組織だった魏軍の前に唐咨の軍は崩れ、戦況は見る間に悪化していく。

城を維持できなくなった唐咨は、ついに脱出を決意する。舟に乗り、海を越え、目指したのは南の呉だった。命がけの逃避行の末、唐咨は呉の地へとたどり着き、将軍として迎え入れられている。

呉での台頭と反乱鎮圧

嘉禾四年(235年)、呉の南方はあちこちで綻びを見せていた。廬陵では李桓と路合、会稽の東冶では隨春、南海では羅厲といった、山越や土豪たちが一斉に立ち上がり、地方の支配構造は揺らいでいた。
これを放っておけず、孫権は老将・呂岱に鎮圧の総指揮を任せ、劉纂・唐咨らを配属し討伐に向かった。 唐咨は他の将とともに地方へ派遣され、持ち場の反乱勢力に対処し大きく貢献した。

翌年の嘉禾五年(236年)、中郎将・吾粲と手を組み、李桓・羅厲の残党を討伐した。 豫章と臨川を荒らしていた董嗣という曲者に三千の兵で攻撃したが、相手は要害に籠もって容易には落ちない。
唐咨の軍も粘るが、何ヶ月も攻めあぐねる膠着状態が続いた。打つ手なしと思われたとき、舞台の袖から周魴が現れる。彼は密かに董嗣の部下を買収し、寝首をかくという奇策に打って出た。
結果、董嗣軍は内部から崩れ、山越の反抗は終わった。

しかし山越も反乱も、これで終わりではなかった。赤烏二年(239年)には、臨賀太守を殺して「平南将軍」を自称した廖式が登場する。交州・蒼梧にまで勢力を広げる野心家だった。
またも呂岱が派遣され、唐咨は副将として随行した。戦いは一年以上に及んだが、彼は焦らず騒がず、手綱を緩めることなく賊徒を斬首、郡県はすべて平定された。

野戦から反乱鎮圧まで、南方の火消しとして確かな実績を重ねた彼は、もはや亡命者の末席などではない。呉という国に、自らの席を作り上げたのだった。

東興の戦いと左将軍への昇進

建興元年(252年)、呉は魏との国境地帯・東興に巨大な堤を築き、川を挟んで二つの小城を設けた。
一見すれば「川沿いのちょっとした土木工事」に見えるかもしれないが、この堤こそが魏との戦争における命綱であり、諸葛恪はこの構えを国防の心臓部と見なした。
そして案の定、魏はその心臓を狙い、大軍を率いての侵攻してくる。

総大将・諸葛恪はすぐさま四万の兵を動員し、自ら出陣する。先鋒には、留贊・呂拠(呂據)・丁奉、そして我らが唐咨が名を連ねた。
彼らは堤に浮橋をかけて展開し、魏軍の波状攻撃を食い止める、というより、跳ね返す。 丁奉が切り込み、混戦のなかで魏軍の攻撃は瓦解し、撤退へと追い込まれる。
東興の堤防線は守り切られ、戦は呉の勝利に終わった。

この功績により、唐咨は左将軍に昇進。さらには封侯と持節の栄誉まで授けられる。
この戦い以降、唐咨は安心して前線を任せられる将として、国境線の常連に定着する。

孫峻の死と呉内部の政変

五鳳三年(256年)、魏を牽制するべく江都から淮泗方面へ向けて軍を動かす計画が立ち、文欽・呂拠・劉纂・朱異らとともに、いつにまにか前将軍になった唐咨も出陣した。その中で実権を握っていた孫峻の急病と死去という報が届くのである。

出兵に中止し軍は踵を返し、戦より政が優先された。
孫峻の権力の椅子には孫綝が座った。ほどなく、かつての仲間である呂拠はその専横を憎み、滕胤と計り、孫綝を討とうする。 太平元年の末、孫綝は詔を発し、従兄の孫慮には都下の兵を与え、文欽・劉纂・唐咨に呂拠討伐への合流を命じる。 唐咨は戦友として幾度も共に戦った呂拠と刃を交え、戦は孫綝の勝利に終わり、呂拠は敗死している。

諸葛誕の乱と降伏、魏における安遠将軍

太平二年(257年)、寿春で魏の重臣・諸葛誕が突如挙兵し、反旗を翻した。
彼は呉に援軍を求め、息子の諸葛靚や部将たちを人質として送り、命がけの協力を請うた。
孫綝政権の呉もこれに応じ、三万の兵を預けて文欽・唐咨・全懌らを派遣し、諸葛誕の籠もる寿春へと進軍した。

魏の司馬昭は王基に命じ、鉄壁の包囲を敷く。補給路は絶たれ、寿春は孤島と化す。
糧は尽き、士気は萎え、ついには味方であるはずの蔣班、焦彝、全懌らが相次いで魏に投降する始末。唐咨は文欽や諸葛誕と共に突囲を試みたが、敵の輪は分厚く、抜け出すには至らなかった。

やがて文欽は、内部不和の末に諸葛誕に斬られ、息子の文鴦と文虎は魏へ投降。
諸葛誕本人も脱出を試みたが、捕らえられ、処刑された。反乱軍は、指揮官から崩れていったのだ。

進退窮まった唐咨、孫曼、孫彌、徐韶ら呉の将たちは、最終的に魏に降伏した。
史書には「誕・欽屠戮,咨亦生禽,三叛皆獲,天下快焉(一度の戦いで諸葛誕・文欽は討たれ、唐咨は生け捕られ、三人の反乱者が全て処理されて、天下の人々はこれを快事とした)」とある。
つまり、見事な魏の圧勝劇であった。

しかし、捕らえられた彼は処刑されるどころか、魏で安遠将軍の地位を与えられ、丁重に遇される。司馬昭は降将に対して寛容な処置を取り、唐咨もまた例外ではなかった。家族も無事で、処罰もなく、彼の名は今度は魏の将として記録に刻まれる。

波の向こうへ、浮海大船の建造と唐咨の終幕

景元六年(262年)、魏の司馬昭は蜀への侵攻を構想し、同時に呉を見据えた大規模な造船を命じた。青州・徐州・兗州・豫州・荊州・揚州の六州がそれぞれに戦船や輸送船を建造するなか、唐咨に「浮海大船」作成の任務が与えられた。
そして、この造船命令を最後に、唐咨の名は歴史の中から姿を消す。

魏から呉に渡り、また魏に渡って仕え、与えられた仕事を全うし続けた唐咨が、最後に命じられたのが「海を越えるための船」であったというのは、あまりにもよくできた幕引きだった。

参考文献

唐咨のFAQ

唐咨の字(あざな)は?

史料に字の記載は見えず、不詳です。

唐咨はどんな人物?

反乱首領として立ったのち呉に亡命し、東興の戦いでは前鋒として奮戦しました。のちに寿春の戦役で生け捕られて魏に降り、安遠将軍となっています。

唐咨の最後はどうなった?

景元六年(262年)に浮海大船の建造を命じられた記事の後は事跡不詳で、没年も伝わっていません。

唐咨は誰に仕えた?

魏から亡命し呉の将軍として活動し、寿春の戦後に魏へ降っています。

唐咨にまつわるエピソードは?

景元六年(262年)に浮海大船の建造を命じられたことが挙げられます。

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