1分でわかる忙しい人のための石苞の紹介
石苞(せきほう)、字は仲容(ちゅうよう)、出身は渤海南皮、生没年(195〜273年)
三国時代から西晋初期にかけて活躍した武将で、もとは鉄を売って暮らすほどの低い身分から身を起こした。
その後、司馬懿らの目に留まり、地道な仕事ぶりと実直な性格で官界に進出。
諸葛誕の乱や東興の戦いで功績を重ね、最終的には西晋の司徒にまで昇進する。
一時は反逆の疑いをかけられるも、潔白を示して信頼を取り戻し、誠実な生涯を全うした人物である。
石苞を徹底解説!鉄売りから司徒まで登り詰めた波乱の生涯
鉄を売りながら機会を待つ:若き日の石苞
石苞の青年期は、静かに苦労を重ねる日々だった。
地元では小吏や給農司馬の下で働いていたが、転機は建安末年(218年)。
吉本の反乱を受けて皇帝近侍の人材を探していた郭玄信に、鄧艾と共に推薦される。
だが、鄴に着いても職は決まらず、しばらくは鉄を売って生計を立てた。
そうした中でも、趙元儒や司馬懿といった人物に見出され、やがて中央の政界へと足を踏み入れることになる。
一見すると偶然に見えるが、誠実に機会を待ち、折れずに踏ん張った姿が彼の人生の芯となっていた。
曹魏で頭角を現す:司馬師・司馬昭の幕下へ
司馬懿に見出され、尚書郎からスタートした石苞は、その後、司馬師の中護軍として働くことになる。
だが、この時点ではまだ“育ち”が抜けきっていなかったようで、女遊びにうつつを抜かし、軽薄な言動もしばしば。
そんな様子を見た司馬懿が、「お前は部下の教育もできんのか」と司馬師を叱責する一幕があった。
司馬師は冷静にこう返した。「石苞には行いに難があるのは確かです。しかし彼には国家を治められるほどの戦略眼があります」と。
この一言に、天下の司馬懿も「まあ、それなら……」とようやく矛を収めたという。
その後の石苞は、東萊や琅邪といった地で太守を歴任。
着任地では誠実に政務をこなし、次第に「実務型の有能官僚」としての評価が固まっていく。
好色だった青年が、次第に“仕事のできる大人”へと脱皮していく様子は、やや遅咲きながらも確かな成長を物語っている。
東興・寿春での戦功:戦場で見せた冷静な采配
嘉平四年(252年)、東興の戦い。
呉の諸葛恪が満を持して魏軍を襲撃すると、味方は右も左も大混乱。
兵士は川に落ち、死体は積み重なり、指揮官は姿を消す、戦場はもはや、敗北を演出するための舞台と化していた。
だが、その惨状のなかに「浮いて見える部隊」がひとつだけあった。
列を崩さず、退路を確保し、隊列を整えたまま生還してきたのが石苞の軍勢である。
司馬昭はその姿に感嘆し、手にした符節を見ながら「これをお前に預けておけば、大仕事を任せられたのに……」と呟いたという。
この言葉が効いたのか、すぐに石苞は奮武将軍・假節・青州諸軍監督官に抜擢される。
甘露二年(257年)、今度は諸葛誕が壽春で反旗を翻す。
石苞は青州の精兵を率い、兗州刺史州泰、徐州刺史胡質と共に東吳の援軍に備えた。
朱異が輜重を都陸に、軽兵を黎漿に進めるも、石苞は待ってましたとばかりに出撃し、朱異の軽兵を撃破。
さらに胡烈が火攻を仕掛けて輜重もろとも焼き払う。朱異はもはや何でもないただの敗残兵と化した。
この功により、石苞は「壽春を守った男」として名を馳せ、鎮東将軍・東光侯へと出世街道をさらに駆け上がる。
最前線の修羅場で黙々と結果を出す。石苞の魅力は、この実直さにあった。
禅譲の立役者から疑われる将軍へ:石苞の転機
咸熙二年(265年)、曹魏の終わりが見え始めると、石苞は陳騫とともに「早く司馬炎を帝に」と禅譲を進言。
押しも押されぬ立役者となった。これは西晋にとっては華々しい幕開けだが、石苞にとっては静かな地雷を踏んだ瞬間でもあった。
泰始四年(268年)、石苞が淮南を鎮守していたときのこと。
「宮中の大馬が驢馬になり、大石が重くて動けぬ」と、そんな童謡が地元でささやかれ始める。
それを聞きつけたのが、石苞の出自を見下していた淮北監軍・王琛である。
彼は「これは石苞の謀反を示す暗号だ」と決めつけ、即座に朝廷へ密奏。
しかもタイミング悪く、占星術師が「南方に大兵の兆しあり」と余計なことを言い出した。
すると東呉が本当に合肥に攻め込んでくる。丁奉・諸葛靚が連名で動き、丁奉は石苞に対して「俺たち仲間だよな?いつ兵を起こす?」と、彼を陥れようとする書状を送りつけてきた。
荊州刺史・胡烈は呉が大規模な進攻を企てていると奏上し、石苞も情報を受け取り水路を塞ぎ、防備を固めた。
が、それすらも「不穏な動き」と見なされ、司馬炎の猜疑心に火がつきはじめる。
羊祜は「石苞は裏切らないってば」と信じていたが、「息子の石喬が召喚に応じない」との理由で、ついに石苞を反逆者として公式に認定。
司馬望・司馬伷に討伐命令が下り、包囲の準備が進められた。
石苞はここで開き直るでも、逃げるでもなく、孫鑠の進言を受けて、静かに軍を離れ、都亭で待罪の姿勢を示した。
この潔さに、ようやく司馬炎も誤解に気づき、討伐は中止。
だがこの一件のあとも、石苞は司馬炎を恨むことなく、
「職責をまっとうできなかった自分が恥ずかしい」と言い、自らの器の小ささを悔いたという。
時代に翻弄されながらも、最後まで愚直であろうとしたその背中には、声高に語らない忠誠が滲んでいた。
再起と信頼の回復:司徒就任と最期の名誉
石苞が疑いをかけられ、職を罷免された後、その処遇に不満を抱いた人物がいた。
それが郭廙である。彼は朝廷に上書し、石苞こそ国の柱石にふさわしい人物であると強く訴えた。
この言葉に、かつて石苞を疑った司馬炎も胸を打たれ、即座に彼を司徒へと任命する。
かくして石苞は政権中枢に返り咲き、過去の疑念を払拭するほどの誠実な働きを見せた。
忠義と勤勉さは再び高く評価され、司馬炎の信頼も完全に取り戻した。
泰始九年(273年)三月、石苞はその生涯を静かに閉じた。
司馬炎は朝堂で自ら哀悼の意を示し、豊かな喪葬の品々を賜与。
さらに車を駆って東掖門の外まで霊柩を見送り、武公の諡号を贈った。
華やかさはなかったかもしれない。一時は疑われながらも、信義を持って職を全うした姿は、時代を越えて静かに語り継がれる。
参考文献
- 参考URL:石苞 – Wikipedia
- 晉書·石苞傳
- 三國志·三少帝紀 諸葛誕傳 注引《世語》
- 資治通鑑 卷七十七・七十九
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