車胄とは?登場してすぐに消えた劉備の引き立て役
曹操に抜擢された刺史:徐州統治を任された男
車胄(しゃちゅう)、字は不明。出身地不明、生没年(?-200年)
史料に初めてその名が登場するのは、建安4年(199年)ごろ。
呂布が滅ぼされた後、曹操が徐州の統治を再編成するにあたり、彼を徐州刺史に任命した。
徐州という土地は、劉備や呂布などが争奪を繰り広げた激戦区。そんな地を治めるには、信頼と統治能力の両方が求められた。
つまり車胄は、曹操の側近や腹心というわけではないが、それなりに信頼された官吏だったと考えられる。
劉備の急襲で命を落とす:その死と徐州の行方
だが、静かに治まるはずだった徐州に、再び嵐が吹いた。
建安5年(200年)、劉備が反旗を翻し、突如として車胄を急襲する。
詳細な経緯は記録が乏しいが、『三国志』によれば、この攻撃で車胄は殺害されたとある。
これはおそらく、劉備が一時的に徐州を奪回したという証左でもある。
この一件をもって、史料上から車胄の名前は消える。
参考文献
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