1分でわかる忙しい人のための伊籍の紹介
伊籍(いせき)、字は機伯(きはく)、出身は兗州山陽郡高平県、生没年(?~221年頃)
劉表の配下として若年期を過ごし、荊州に落ち延びた劉備と交流を深めた文人官僚。
劉備の益州平定後には左将軍從事中郎、のちに昭文将軍に任じられ、蜀の法典『蜀科』制定に参与する。
孫権との鋭い応酬でも知られる弁舌の士であり、蜀の外交と法制の両輪を静かに支えた存在。
「雍容風議、見礼於世」と評されたように、その生涯は派手さはないが誠実そのものであった。
伊籍を徹底解説!法と礼を携えた文官の実力
劉備との出会いと荊州での転機
伊籍は若くして同郷の劉表に仕え、荊州に身を置いていた。
しかし運命の転機が訪れるのは、劉備が荊州に流れ着いたときだった。
当時から穏やかで理知的な人柄を持ち、劉備は伊籍を非常に気に入り、何度も会いに行ったという。
この時代の友情はただの飲み仲間ではない。生死をかけた信頼関係だ。
結果として、208年に劉表が病死した後、伊籍は迷うことなく劉備に従い、共に長江を渡って南へ向かった。
“主を乗り換える”というより、”義に生きる”物であったことが、この決断ににじんでいる。
益州平定後の昇進と蜀科の制定
建安十九年(214年)、劉備が劉璋を破って益州を平定すると、
伊籍は左将軍從事中郎に任命された。
このときの待遇は、簡雍・孫乾といった古参腹心には及ばなかったが、それでも蜀の中枢に食い込む要職だった。
その後は昭文将軍に昇進し、諸葛亮・法正・劉巴・李嚴とともに蜀漢の法典『蜀科』を編纂。
これは蜀の統治に必要な法律と規範をまとめた一大プロジェクトであり、
伊籍が「実務もできる文人」であることを示す決定的な功績となった。
華々しい戦場の話はない。だが、後方支援の法律整備がなければ、蜀という国家は回らない。
そうした”目立たぬ力持ち”の役割を、彼は黙々とこなしていた。
知略と礼節の人:外交使節としての顔
伊籍の名を広めたエピソードに、孫権との問答がある。
彼が呉へ使節として赴いた際、孫権は“この男、論破してみせよう”と意気込んでいた。
開口一番、孫権はこう問う。「無道の君に仕えるとは、骨が折れるだろう?」
普通なら黙るところだが、伊籍は即座にこう返す。
「一度お辞儀して立ち上がる程度のこと、労とも言えますまい。」
言葉の刃が走った瞬間だった。孫権もこれには舌を巻き、感嘆したという。
さらに彼は呉の自然や人々についても好意的に語っており、
「山は高く雄大、水は清らかに流れ、人は剛直で才気に満ちている」
と評した。形式だけの使者ではなく、相手の土地にも敬意を示す柔軟さがあった。
派手な戦功はなくとも、言葉で敵を制し、礼で国を通す。
伊籍という人物は、蜀の“知と礼の象徴”だった。
参考文献
- 参考URL:伊籍 – Wikipedia
- 三國志·蜀書·伊籍傳
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