張遵:張飛の血を継ぎ、蜀漢を支えた外戚の最期

一般文官2

張遵を解説、血筋と忠義の生涯

蜀漢の外戚としての張遵:張飛の血筋が辿った政界への道

張遵(ちょうじゅん)、字は不明、出身は不明、生没年(?~263年)
張遵は、祖父・張飛から始まる軍人の家系に生まれた。父・張苞も若くして死に、そのあとを継ぎ官僚として蜀の政治に仕えた。
その背景には、ただの家柄では済まされない姻戚関係の強さがある。張遵の伯母、すなわち張飛の娘は、劉禅の正室である敬哀皇后。223年に皇后として立てられ、237年に亡くなるまで、宮廷の最奥にいた人物だ。
この「皇后の甥」という立場が、張遵にとっての強力な後ろ盾であったのは間違いない。

つまり、張遵が尚書に昇進し、蜀の中央政権に深く関与できたのは、張家の血筋に加え、皇族と直接つながる政治的資本があったからだ。
蜀漢では、外戚の立場は単なる「お飾り」では終わらず、政務の実権にも手を伸ばせる土壌があった。張遵はその典型であり、政の場においても、血統を背景に存在感を示した。

決戦の地・綿竹関での最期:張遵が抗った魏軍の猛攻

景耀六年(263年)、魏の名将・鄧艾が蜀に総攻撃を仕掛けた。張遵は諸葛瞻の配下として、綿竹関で黄崇・李球とともに防衛にあたる。
このとき魏軍は、鄧忠・師纂という二人の将を左右両翼に配置し、蜀軍の包囲と突破を狙った。
だが、この包囲作戦は失敗する。鄧忠も師纂も蜀軍を撃ち崩せず、結局は退却する羽目となる。
その際、彼らは「賊未可擊(賊、いまだ撃つべからず)」と語り、蜀軍の抵抗の激しさを認めざるを得なかった。

戦術的には一時的な勝利を得たかに見えた蜀軍だが、総大将の諸葛瞻がやがて戦死し、戦況は一変する。
張遵もまた、最前線に残って奮戦するが、最終的に捕らえられて斬首された。
「書斎で出世した外戚」が、最後には前線に立ち、刃の前で命を絶たれる──その姿に、政と戦が一つに重なる蜀末期の混迷を見てとれる。

参考文献

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