1分でわかる忙しい人のための鄧艾の紹介
鄧艾(とうがい)、字は士載(しさい)、出身は義陽棘陽、生没年(195~264年)
曹魏後期の名将。長く西方で蜀の姜維に備え、狄道・段谷・芒水などで防衛線を維持した。263年、陰平の険路を強行突破し江油・涪陵・綿竹と電撃進撃、諸葛瞻を討ち、劉禅を降伏させて蜀を滅ぼす奇功を立てた。勝利後の越権任官や傲言が禍し、鍾会の讒言と衛瓘の処断で護送中に殺害された。のち晋武帝が孫の鄧朗を釈放し任用し、名誉の一端を回復した。兵站・屯田・地形偵察に優れ、荒野を開き軍民を豊かにした実務家でもあった。
鄧艾を徹底解説:陰平道の奇策と滅蜀の全貌
鄓艾の出自と改名の由来:義陽の寒門から将軍へ
義陽棘陽の出で、早くに父を喪い清貧に暮らした。幼少から吃音があり、汝南で牧牛に従事した時期もあったが、山や沢に至れば必ず地形を測り道程を図に写し、営陣の可否を考える癖を身につけた。
十二歳で母と潁川に移る途上、太丘長陳寔の碑に刻まれた文は世の範、行はいさおしの則の句に出会い、名を鄧範、字を士則とした。のち同族に同名者が出たため改名し鄧艾、字士載と定めた。改名の背景までが生き方の設計図のようで、以後の実務と軍務がここに通じる。
屯田・治水と「済河論」:兵站を作る実務家の台頭
地方官として十数年の勤務を積み重ねたのち、上計吏として洛陽に上り、司馬懿へ地方の実情を報告した。これを機に太尉府掾へ抜擢され、さらに尚書郎となる。
正始元年(240年)以降には「済河論」を上表し、黄河の流れを二淮へ引き込み、五里ごとに六十人の営を配して屯田を行う壮大な計画を示した。
淮北には二万、淮南には三万を置き、十二分休で常に四万人が耕作と守備に従事する。収穫は西方の三倍に達し、諸経費を差し引いても年五百万斛を蓄える計算であった。六~七年で三千万斛を淮上に積み上げれば、十万の大軍を五年養える。
これにより呉討伐の備えが整うと結論づけ、司馬懿はこれを採用した。以後、東南は安定し、後年の遠征の基盤が築かれたのである。
汝南太守・兗州刺史期:荒野開発と軍民富庶化
司馬師の治世、鄧艾は汝南太守・兗州刺史・振威将軍を歴任した。
彼の赴任地では、荒れ果てた原野に鍬の音が響き、やがて軍糧を生み出す田畑へと変わった。
その収穫は民の食卓を潤し、同時に兵站を満たした。
地方行政と軍備の運営を重ね合わせ、鄧艾は土地そのものを兵站基地へと作り替えていった。
曲城の戦い:洮城先取りで姜維を牽制
249年頃、蜀の姜維が雍州に出兵すると、郭淮と陳泰が迎撃し、ここに新進気鋭の鄧艾も合流する。まず鄧艾がやったのは、曲城をガッチリ包囲して水源と交通をストップ。蜀軍は困窮して撤退した。続いて鄧艾は白水北岸の守備を任される。対岸では姜維が廖化を配置し対峙する。
「北側の洮城から奇襲?」と、鄧艾は北面の洮城からの奇襲を見抜き、さっさと洮城を押さえる。姜維は目標を失い攻めあぐねて退いた。この功により関内侯を賜い、討寇将軍に加えられた。地形図を歩いて作る積み重ねが、要地先取りという手に変わっている。
狄道の戦い:包囲下の救援と高城嶺越え
正元二年(255年)、司馬師が病に倒れると、蜀の姜維は「チャンス到来!」とばかりに数万の兵を率いて魏を攻撃し、隴西に進軍、狄道を目指した。魏の将・陳泰は必死に抵抗したが、姜維は狄道の包囲に成功した。
同年八月辛未の日(10月9日)、司馬昭は鄧艾を安西将軍に任命し、仮節を授け、護東羌校尉を兼任させて陳泰らと共に蜀軍に対抗させた。
陳泰は鄧艾の軍と合流し、三方から隴西へ進軍。蜀軍を避けて奇襲を仕掛け、高城嶺(現在の甘粛省渭源の北西)を迂回し、狄道の南東の山に到達。そこで火を焚き、太鼓を鳴らして「援軍来てますよ〜」とPRした。守備兵は援軍の到着を知って士気が大いに高まった。
姜維は慌てて山沿いから攻撃を仕掛けるが、魏軍に撃退される羽目に。このとき陳泰は蜀軍の退路を断つと宣言し、九月甲辰の日(11月11日)、姜維は撤退して鐘堤へ退いた。北伐のはずが、またもや「長距離ウォーキング」で終わってしまったのである。
段谷の戦い:武城山の要地確保と渭水転進
姜維が鍾堤へ退いた後も、鄧艾は「どうせまた来る」と読んで防備を強化していた。案の定、翌256年の夏、姜維は蜀将・胡済と上邽で合流する計を立て、祁山に軍を進めてきた。
鄧艾はこれを見越し、董亭から南安を突こうとする動きを察知すると、先んじて武城山を占拠する。姜維は地利を失い、強攻を断念して、夜陰に紛れて渭水を渡り、東進して上邽を狙った。
両軍は段谷で激突。しかし約束の胡済は遅参し、姜維軍は孤立してしまい、蜀兵は大損害を受けて退却する羽目になった。
魏はこの勝利で鄧艾を鎮西将軍・都督隴右諸軍事に進め、鄧侯に封じ、五百戸を与えた。さらに子の鄧忠も亭侯に列せられるボーナス付き。
結果はシンプル、「連絡が途絶えたら負け」で蜀軍の敗北は、まさにその典型例だった。
長城・芒水の対峙:諸葛誕の乱期に不戦勝
257年、淮南で諸葛誕が呉と通じ反すると、関中の兵は東へ動員される。姜維は秦川へ出て長城の軍糧拠点を狙うが、鄧艾と司馬望は即応して近水に営を築き、挑発に乗らず守勢を固めた。芒水の山際で対峙は長引き、やがて258年に諸葛誕の敗死が伝わる。
蜀軍は退き、鄧艾は征西将軍に進んだ。兵站を確保して動かないという選択が、北伐の機会を空費させる現実的な勝ち方だった。
洮陽・侯和の会戦:遠征軍を各個撃破
景元三年(262年)、姜維はまたもや北伐に挑み、洮陽へ侵攻した。魏からすれば「また来たのか」と言いたくなる出撃だが、鄧艾は慌てない。遠征軍が長大な補給線に依存している以上、持久力がないことを熟知していたからだ。
彼は洮陽の東、侯和に陣を敷き、正面決戦を避けて静かに待つ。兵を酷使せず、敵が疲弊して自壊するのを狙う「以逸待労」の典型である。
やがて蜀軍は兵糧不足で動きが鈍り、士気も落ち始めた。ここぞとばかりに鄧艾は反撃に転じ、蜀軍を徹底的に打ち破った。姜維の北伐はまたしても頓挫し、息切れした形となる。
戦史的には、まるでボクシングで相手がスタミナ切れで足元ふらついた瞬間にカウンターを叩き込むようなもの。鄧艾の読みの深さと冷静さが光った一戦だった。この一戦で翌年の総攻勢へ地ならしが進むことになる。
魏の蜀総攻勢:鍾会と分進、陰平道の奇策
景元四年(263年)秋、大将軍司馬昭は伐蜀を断行し、三路を命じた。鄧艾には三万余を与えて沓中の姜維を牽制させ、雍州刺史諸葛緒には三万余を付けてその帰路を断たせ、鍾会には十余万を授けて漢中を衝かせ、廷尉衛瓘が監軍となった。
鍾会は漢中を破ったが、姜維は剣閣に拠って膠着する。十月、鄧艾は精鋭を抜き陰平の小路をひそかに進んだ。山は高く谷は深く、糧は尽きようとしたが、鄧艾は毛毡で身を包み斜面を転下し、将士も崖木に攀じて魚の背のように続いた。奇兵は江油に現れ、守将馬邈は降伏した。
江油・涪陵・綿竹の攻略:諸葛瞻の戦死と劉禅の降伏
江油から鄧艾軍は涪陵と綿竹を破竹の勢いで攻め、蜀の衛将軍諸葛瞻は戦死した。成都は風前となり、劉禅はやがて降を選ぶ。鄧艾は綿竹に京観を築き、戦いの帰趨を可視化した。短期決戦は兵の疲弊を最小にし、巴蜀は一朝にして平定された。
入城後の措置と越権任官:安撫と統治、火種も
入城後、鄧艾は劉禅を驃騎将軍に封じ、蜀の官人をそれぞれ旧職に復させて民心の安堵を図った。だがこれらは未稟の越権と受け止められ、さらに蜀官人に対する傲慢な物言いが反感を生んだ。功が大きいほど言葉は鋭く響き、火種となる。
鍾会の讒言と逮捕:衛瓘・田続による父子の最期
蜀を滅ぼした立役者の鄧艾だが、凱旋の栄光は一瞬で終わった。
鍾会は「自軍が蜀の主力を正面で釘付けにしたからこそ鄧艾の奇襲が成功した」と強調し、さらに鄧艾が成都入城後に独断で処置を下したことを「越権」として司馬昭に訴えた。
普段から威圧的で、諫める者を嫌い、下吏を叱責する姿が目立っていた鄧艾に対し、司馬昭の疑念は深まり、ついに父子を捕らえて長安へ送るよう命じられる。
衛瓘の策略により、捕らえられた親子だったが、護送の途上、成都では鍾会が反乱を企てて逆に討たれる。
鄧艾の将兵は「主を取り返すべし」と動き出したが、監軍の衛瓘は報復を恐れて田続を派遣し、綿陽西にて鄧艾と子の鄧忠を斬殺した。
洛陽に残った一族も多くが処刑され、かろうじて幼い孫の鄧朗と女眷だけが命をつなぎ、西域へ流されることとなった。
そもそも鄧艾の死には伏線があった。長年にわたり隴右を統治して功績を積んだが、司馬昭は「民心が鄧艾に傾くのではないか」と疑い、唐彬に調査を命じていた。
唐彬の報告は意外なもので、「鄧艾は傲慢で諫言を嫌い、下吏を罵倒することも多く、隴右の人々には不満が渦巻いている。人心が彼に靡くことなどあり得ない」と述べていた。
つまり司馬昭にとって、鄧艾は功績こそ大きいが扱いづらい存在でしかなかったのである。
泰始九年(273年)、晋武帝司馬炎は「鄧艾は大功を立てたが罪を免れなかった。子孫が皆流されて民隷となったのは哀れである」と詔を下し、孫の鄧朗を赦免して郎中に任じた。
それは功臣を粛清した後の、後味の悪さを拭うための名誉回復であった。
勝利者でありながら最後は猜疑と権力闘争の犠牲になる。三国時代らしい皮肉な幕切れである。
追復と後世評価・逸話:功と過、口吃の機知
そもそも鄧艾の死には伏線があった。長年にわたり隴右を統治して功績を積んだが、司馬昭は「民心が鄧艾に傾くのではないか」と疑い、唐彬に調査を命じていた。
唐彬の報告は意外なもので、「鄧艾は傲慢で諫言を嫌い、下吏を罵倒することも多く、隴右の人々には不満が渦巻いている。人心が彼に靡くことなどあり得ない」と述べていた。
つまり司馬昭にとって、鄧艾は功績こそ大きいが扱いづらい存在でしかなかったのである。
泰始九年(273年)、晋武帝司馬炎は「鄧艾は大功を立てたが罪を免れなかった。子孫が皆流されて民隷となったのは哀れである」と詔を下し、孫の鄧朗を赦免して郎中に任じた。
それは功臣を粛清した後の、後味の悪さを拭うための名誉回復であった。
勝利者でありながら最後は猜疑と権力闘争の犠牲になる。三国時代らしい皮肉な幕切れである。
口吃にちなむ機知として、鄧艾は口吃(どもり)があり、話すときに自分の名前を「艾、艾……」と繰り返してしまう癖があった。ある日、晋の文王・司馬昭がそれをからかってこう尋ねる。
「卿はいつも『艾艾』と言うが、いったい何人の『艾』がいるのか?」
鄧艾はすかさずこう答えた。
「楚の狂人・接輿が孔子のそばで『鳳兮鳳兮』と歌ったが、鳳は一羽だけです。」
この返答は、古典に通じた教養と機転を示すもので、司馬昭も感心したと伝えられる、
また、宋代歐陽修・宋祁らの撰する『新唐書・志』によれば、唐代の顔真卿が皇室に上奏し、古代名将六十四人を追封して廟享させた中に「魏太尉鄧艾」が含まれていた。この名簿には同時代から張遼・関羽・張飛・周瑜・呂蒙・陸遜・陸抗・羊祜といった名将が並び、鄧艾も後世「廟食の将」として顕彰されたことがわかる。
参考文献
- 参考URL:鄧艾 – Wikipedia
- 《三国志·魏書・鄧艾伝》
- 《資治通鑑·巻七十八》
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FAQ
鄧艾の字(あざな)は?
鄧艾の字は士載(しさい)です。
鄧艾はどんな人物
曹魏後期に西方戦線を統轄した将で、屯田と治水で兵站を整え、狄道・段谷などで姜維の攻勢を退け、陰平道の奇策で蜀を滅ぼしました。
鄧艾の最後はどうなった
蜀滅亡の後、鍾会の讒言で収捕され護送中、衛瓘の命で田続が綿陽西にて父子を殺害した。西暦264年のことである。
鄧艾は誰に仕えた
曹魏に仕え、太尉司馬懿に抜擢され、その後も司馬師・司馬昭の政権下で西方を担った。
鄧艾にまつわるエピソードは
口吃にちなむ機知として、司馬昭から艾を幾つと問われ鳳兮鳳兮の一鳳に倣って、「ひとつ」と返した逸話があります。
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