杜預:破竹の勢いで呉を滅ぼした文武両道の名将で左伝オタク【すぐわかる要約付き】

杜預
杜預

1分でわかる忙しい人のための杜預の紹介

杜預(とよ)、字は元凱(げんがい)、出身は京兆郡杜陵県、生没年(222年~285年)
杜預は曹魏末から西晋初期にかけて活躍した政治家・軍事家・学者である。
名門の家に生まれ、若くして司馬昭の妹・高陸公主と結婚し、司馬一族との縁戚関係を得たことにより政界に進出した。

蜀漢討伐戦では鎮西長史として従軍し、鍾会の叛乱に巻き込まれながらも冷静な判断で生き残り、功績を挙げて邑を加増された。
西晋建国後は河南尹や秦州刺史を歴任し、禿髮樹機能との戦いで石鑒と対立しながらも、軍略に優れていることを証明した。

やがて羊祜の推薦を受けて荊州都督に就任し、呉征伐を主導する。
太康元年(280年)の江陵攻略では奇襲と計略を駆使し、「勢如破竹(破竹の勢い)」という故事の語源となった。これにより晋は呉を滅ぼし南北統一を達成した。杜預はその功により当陽県侯に封じられた。
学者としても春秋学に精通し、自ら「左伝癖」と称して『春秋経伝集解』を著した。政治・軍事・経済・水利に幅広い才を示し、「杜武庫」と呼ばれるほど博学多才であった。
太康五年(285年)に病没、63歳で世を去った。孔子廟と武廟六十四将の両方に祀られるという、前代未聞の二刀流評価を受けている。

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杜預を徹底解説!羊祜の後継として破竹の勢いで呉を討伐、左伝オタクの生涯

名門出身の杜預、司馬昭との縁戚関係で官界へ

杜預は京兆郡杜陵県の出身で、前漢の御史大夫・杜延年の十一世孫にあたる名門の生まれだった。
その官界デビューは、コネと血縁の極みだった。
時の実力者・司馬昭の妹である高陸公主と結婚し、華々しく尚書郎に就任。
さらに父・杜恕の爵位「豊楽亭侯」を継承するという、盤石のスタートを切った。
4年後には参相府軍事に転じ、中央政界での立場を固めていく。

鍾会の反乱を生き延び、秦州刺史に就任

景元四年(263年)、鎮西将軍・鍾会が蜀討伐を命じられると、杜預も鎮西長史として従軍した。
遠征は成功し、蜀は滅亡したが、その翌年、鍾会が旧蜀の地で突如として反乱を企てた。
ところが、配下の兵士たちが反発して計画は崩壊し、鍾会に属していた官吏の多くが殺害される事態となった。

そんな修羅場のなか、杜預は持ち前の機転によって難を逃れ、無事に生き残った。
蜀討伐に参加した功績も認められ、帰還後には領地を加増されている。

西晋の建国後、杜預は河南尹となったが、ここで後々まで因縁が続く相手と衝突する。
その人物が石鑒であり、以前から杜預を恨んでいた石鑒は、杜預を告発して免職に追い込んだことがあった。

やがて泰始六年(270年)、隴右で禿髪樹機能が侵攻を始めると、杜預は安西軍司として長安に派遣された。
率いる兵はわずか三百人、馬は百頭。
ちょっとした義勇軍レベルの兵力だったが、その後は秦州刺史となり、東羌校尉、軽車将軍、仮節など、いくつもの肩書を兼ねることになった。

石鑒との対立、檻車で護送された杜預の逆襲

ところが、その任地で待ち受けていたのが、よりによって石鑒だった。
安西将軍として秦州の軍事を統括していた石鑒は、杜預に禿髪樹機能への攻撃を命じた。

しかし杜預は、敵軍の士気が高く、馬も健壮である一方、晋軍は遠征によって兵も馬も疲弊していると判断した。
今は無理に攻めず、まず兵力と軍需物資を整え、翌春に攻撃すべきだと進言したのである。

だが、この慎重論に石鑒は激怒する。
杜預が軍事行動を遅らせたとして「稽乏軍興」の罪を着せ、御史を派遣して檻車で廷尉のもとへ送りつけた。
かつて河南尹の職を追われた杜預は、今度は囚人として護送される羽目になった。

その後、石鑒は自ら禿髪樹機能の討伐に乗り出したものの、戦果を挙げることができなかった。
ところが石鑒は、なんと勝利を収めたと朝廷に報告してしまう。
これを知った杜預は、石鑒の虚偽報告を見逃さず、朝廷に訴えて厳しく追及した。

もともと因縁のあった二人は、ついに互いを公然と非難し合う事態となり、結局、石鑒も杜預もそろって免官となった。
虚偽の戦功を暴いた杜預だったが、自分の官職まで失うという、なんとも後味の悪い結末を迎えたのである。

羊祜の後継として呉征伐

晋の皇帝・司馬炎は呉を滅ぼして天下を統一しようと考えていたが、朝廷の重臣たちは消極的だった。
そんななか、呉征伐を支持したのが羊祜・杜預・張華の三人である。
咸寧四年(278年)、羊祜が病に倒れると、荊州方面の後継者として杜預を推薦した。
もともと武芸よりも学問を得意とする杜預が、いよいよ戦場の主役に抜擢されることになった。

羊祜の死後、杜預は鎮南大将軍・都督荊州諸軍事に任じられ、さっそく呉征伐の準備に取りかかった。
精鋭を選抜して軍備を整えると、まず西陵の守将・張政に奇襲を仕掛け、大敗させた。

ところが張政は、奇襲を受けて敗れたことを恥じ、孫皓に敗戦を報告しなかった。
これを見逃さなかったのが杜預である。
捕虜をわざわざ呉へ送り返し、張政の敗北を孫皓に知らせることで、敵の内部に不信を生じさせた。
その結果、孫皓は張政を解任し、西陵の守将を留憲に交代させた。

杜預は呉征伐を上表し、太康元年(280年)には江陵に軍を集結させた。
参軍の樊顕・尹林・鄧圭、襄陽太守の周奇らに兵を率いて長江をさかのぼらせ、各地の城を次々と攻略させる。
さらに周旨ら八百人の奇兵を楽郷へ送り込み、巴山では旗を掲げ、火をたいて大軍がいるように見せかけた。
この奇襲と偽装によって、呉の軍民は大いに驚き、混乱した。

そして杜預は、いよいよ江陵の攻略に乗り出した。
守将の伍延は降伏を申し出たものの、実際には隙を突いて攻撃するつもりだった。
しかし杜預はその企みを見破り、伍延を斬って江陵を制圧した。

張政の敗北を利用して敵将を交代させ、わずか八百人の奇兵で呉軍を混乱させ、偽装降伏まで見破る。
ここに名将・杜預の真価が浮き彫りとなった。

破竹の勢いの進撃戦、奇襲と偽装の天才軍略

江陵を奪った杜預の快進撃は、ここからが本番だった。
王濬が呉の水軍都督・陸景を討ち取り、南方の州郡も次々と降伏。
情勢はまさに呉崩壊前夜で、杜預は零陵・桂陽などの守備を命じられた。

だが、ここで軍議は足踏みを始める。
「いくらなんでも早すぎる」「呉がこんな簡単に落ちるはずがない」
「春になれば長江の水位が上がる。駐兵もままならない」

そんな慎重論が次々と噴き出すなか、杜預は真っ向から反論した。
「かつて楽毅は、済西での一戦をきっかけに強大な斉を併合した。
今、我が軍の勢いはすでに盛んであり、たとえるなら竹を割るようなものだ。
最初の数節を割ってしまえば、あとは刃を当てるだけで自然に裂けていき、もはや手を加える必要もない」

この発言こそが、成語「勢如破竹(破竹の勢い)」と「迎刃而解」の語源である。
杜預にとって、勝利を重ねて勢いに乗った今こそ、攻撃を続けるべき時だった。

杜預は各軍に的確な進軍方針を指示し、勝ち馬に乗るだけの部隊ではなく、攻勢の起点として全体を牽引した。
やがて王濬と王渾が建業に迫り、孫皓はついに王濬に降伏した。
杜預はこの功績により当陽県侯に封じられ、領地は9,600戸に拡大した。
そのうえ、息子の杜耽も食邑1,000戸の亭侯に叙され、さらに絹8,000匹が与えられるという豪華な恩賞が授けられた。

杜預はそのまま江南に駐留し、戦後処理と地域の安定化にも一役買うこととなった。

文廟と武廟を股にかけた唯一の男

太康五年閏十二月(285年)、杜預は司隷校尉に任じられ、特進の位も与えられたが、赴任途中に鄧県で病没した。
享年六十三。
皇帝・司馬炎は深く哀悼し、征南大将軍・開府儀同三司を追贈し、「成侯」の諡号を贈った。

その名は死後も燻らず、むしろ燃え広がる。
唐の貞観二十一年(647年)、太宗・李世民は杜預ら二十一人を孔子廟に祀ることを命じた。
さらに建中三年(782年)、顔真卿の奏請を受けた唐徳宗・李適は、武廟に祀る六十四人の名将を選定し、その中に杜預も名を連ねた。

学者として孔子廟に、武将として太公望を祀る武廟に名を刻む。
この二つを兼ねた者は、杜預ただ一人。
書と剣、学と戦。
どちらにも全振りして、それでいて破綻しなかった男は、歴史上でも稀有だった。

杜預は死してなお、知と武を一つの身体に収めた特異点として、後世の評価を独占し続けている。

学者か軍人か?文武両道の「杜武庫」伝説

杜預の人生は、「勉強ができる子」だった、では終わらない。
むしろ、その豊富な知識を政治にも軍事にも生かしてしまった人物である。

意外なことに、杜預は武芸が得意ではなかった。
馬に乗ることもなく、弓を射ても鎧を貫けないほどだったが、重大な軍事任務があるたびに将軍たちの列に加わっていた。
武芸は苦手でも、戦略を立てて軍を動かすことには優れていたのである。

人付き合いでは礼儀正しく、質問されれば知識を惜しまず答え、人に教えることも面倒がらなかった。
仕事には素早く取り組む一方、発言には慎重で、学問だけでなく人との接し方にも優れた人物だった。

政治の分野でも、その知識は存分に発揮された。
度支尚書を七年間務め、財政や水利、刑律について数多くの改善策を提案し、民衆の暮らしと国家の財政収入の向上に貢献した。
要するに、予算から治水、法律まで任せられる万能の政策オタクだった。

そして軍功を立てた後、落ち着いた時間ができると、杜預は経書の研究に没頭した。
『春秋』と『左伝』を一つにまとめて注釈した『春秋左氏経伝集解』を著し、さらに諸家の系譜や制度を調べて『釈例』を編纂した。
そのほかにも『盟会図』『春秋長暦』『女記賛』などを書き上げ、晩年になって独自の学問体系を完成させた。

ところが、これほど研究を重ねても、当時の世間では杜預の学問はあまり評価されなかった。
その文章や解釈が飾り気のない率直なものだったためである。
そんななか、杜預の研究を高く評価したのが、秘書監の摯虞だった。

摯虞は、杜預の『釈例』について、『左伝』を理解するために書かれたものでありながら、その内容は『左伝』の解説だけにとどまらず、独立した書物として通用するほどの価値があると称賛した。
後に大きな影響を残すことになる杜預の学問も、当時は誰もが認めていたわけではなかったのである。

そんな杜預の学問好きがよく分かるのが、司馬炎とのやり取りだ。
杜預は以前から、王済には馬への執着を意味する「馬癖」があり、和嶠には金銭への執着を意味する「銭癖」があると評していた。

これを聞いた司馬炎が「では、お前には何の癖があるのか」と尋ねると、杜預は「私には『左伝』癖があります」と答えた。
人の趣味や執着を評していた本人も、結局は『左伝』に夢中だったのである。

武芸は苦手でも軍を率い、財政や法律にも精通し、戦いが終われば経書の研究に没頭する。
そんな杜預の多才ぶりから、当時の人々は彼を「杜武庫」と呼んだ。
まさに、知識と才能をぎっしり詰め込んだ「武器庫」のような男だった。

杜預の評価

『晋書』の史臣は、杜預が生まれながらにすべてを知っていたわけではなく、実際の仕事を通じて能力を磨き、優れた戦略で敵を攻略したことを高く評価している。
儒学者としての教養を備えながら戦場でも活躍し、学問と軍事の両方で才能を発揮した人物だった。

さらに史臣は、孔子の門下で重んじられた四つの分野に触れ、『春秋』の解釈においても一つの学派に精通した杜預の学識を称賛している。
巻末の賛でも、かつて軍を率いる者で経書に通じた人物は少なかったと述べ、文筆の世界でも名を上げた杜預を「武庫」と称えている。

ただし、史臣は杜預のすべてを称賛したわけではない。
厳しく批判したのが、皇太子の服喪に関する礼制上の判断だった。

本来、三年間の喪は身分の高低にかかわらず守るべきものだったが、杜預は皇太子が埋葬を終えた段階で喪を解くことを認めた。
史臣は、皇太子を諸侯の庶子と同じように扱い、時勢に合わせて礼を曲げたとして、杜預が正しい礼のあり方を追求しなかったことを非難している。

参考文献

FAQ

杜預の字(あざな)は?

杜預の字は元凱(げんがい)です。

杜預はどんな人物?

杜預は博学で軍略にも優れ、学者として『春秋経伝集解』を著した。

杜預の最後はどうなった?

太康五年(285年)、司隸校尉に任じられたが、赴任途上の鄧県で病没し、享年63歳でした。

杜預は誰に仕えた?

杜預は曹魏末から西晋初期にかけて司馬昭・司馬炎ら司馬氏政権に仕えました。

杜預にまつわるエピソードは?

呉征伐の時、着々と制圧地域を広げていった。その時「かつて楽毅は、膠西の一戦で強大な斉をほぼ制した。今、我が軍の士気はそれ以上だ。竹を割るように突き進める」
この発言から、成語「勢如破竹(破竹の勢い)」という言葉が生まれました。

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