【1分でわかる】杜預:破竹の勢いで呉を滅ぼした文武両道の智将、左伝オタクの生涯【徹底解説】

杜預

1分でわかる忙しい人のための杜預の紹介

杜預(とよ)、字は元凱(げんがい)、出身は京兆杜陵、生没年(222~285年)
西晋を代表する文官にして軍略家。学者出身ながら、呉征伐の中核を担い、建業陥落を現実にした男である。
「勢如破竹(破竹の勢い)」の由来となった発言で知られるが、元々は春秋学を極めたインテリであり、軍事よりも学問畑の人材だった。
だが羊祜の死後、その後継者として戦線に出ると、一転して機略縦横の軍司に変貌。呉の名将たちを翻弄し、王濬らとともに孫皓を屈服させた。
唐代には孔子廟と武廟の両方に祀られるという、前代未聞の二刀流評価を受けている。

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杜預を徹底解説!破竹の進撃と文武の才

杜預の履歴書:失脚・左遷・逆襲の三拍子

杜預の官界デビューは、実に”コネと血縁の極み”だった。
時の実力者・司馬昭の妹である高陸公主と結婚し、華々しく尚書郎に就任。
さらに父・杜恕の爵位「豊楽亭侯」をそのまま継承という、盤石のスタートを切った。
4年後には参相府軍事に転じ、中央政界での立場を固める。

景元四年(263年)、鎮西将軍・鍾会が蜀討伐を命じられ、杜預も「鎮西長史」として随行する。
遠征そのものは一時成功しかけたが、翌年、鍾会が突如として謀反を企て、蜀地で軍を乗っ取ろうとした。
だが部隊の反乱で計画は即座に崩壊。現地の官吏たちは次々と殺されるなか、杜預は冷静な判断で退避に成功する。
この修羅場からただ一人抜け出した彼の胆力は、単なる幸運では済まされない。
いずれにせよ、蜀討伐は成ったので、その功績が認められ加増される。

その後、西晋建国にともない、杜預は河南尹として政務の表舞台に立つ。
やがて泰始六年(270年)、隴右で禿髮樹機能が侵攻を始めると、杜預は安西軍司として長安に派遣された。
所持兵力は三百、馬百。ちょっとした義勇軍レベルだが、すぐに秦州刺史、東羌校尉、軽車将軍、仮節など多肩書を兼任し、地方統治のキーマンへと抜擢される。

その任地で、杜預は上官の石鑒と作戦方針を巡って激しく対立する。
石鑒は「今すぐ攻めろ」と命令を下したが、杜預は状況を冷静に分析し、「兵も馬も疲弊している。今は無理」と慎重論を唱える。
だがこの合理性は通らず、「軍興を遅らせた」と難癖をつけられ、檻車で廷尉送りという屈辱の処分を受ける羽目に。
その後、石鑒が自ら出兵したものの、戦果はゼロ にもかかわらず「勝利を収めた」と報告したことが、今度は杜預の怒りを買った。
杜預はこの”盛大なホラ”を糾弾し、石鑒の虚報を朝廷に訴える。
結局、石鑒は失脚し両者そろって免職という、なんとも後味の悪い結末を迎えることになる。

呉征伐の火蓋を切る!羊祜の後継として着任

晋の皇帝・司馬炎が呉征伐を思い立つも、重臣たちは消極的。
そのなかで堂々と賛成を表明したのは、羊祜・杜預・張華の三名のみ。
咸寧四年(278年)、羊祜が病に伏すと、後継に推薦されたのが杜預だった。
もともと軍事より文筆が得意な彼が、いよいよ戦場の主役に抜擢される。

羊祜の死後、杜預は正式に鎮南大将軍・都督荊州諸軍事に就任。
着任と同時に戦支度に取り掛かり、兵の選抜と物資の整備を急ピッチで進めた。
最初の標的は西陵。守将・張政を電撃奇襲で撃破する。
張政は敗戦を恥じて孫皓に報告すらできず、責任転嫁に走る始末。
杜預はここに一枚噛む。捕虜を丁重に呉へ返送し、「そちらの司令官、黙ってますけど……」という無言のメッセージを添える。
これで孫皓の不信を煽り、西陵の司令官は留憲に交代された。

機は熟したと見た杜預は、太康元年(280年)に伐呉を正式に上表。
江陵に兵を集めると、参軍の樊顕・尹林・鄧圭、襄陽太守の周奇らに命じて長江をさかのぼらせ、一気に各地を攻略する。
さらに周旨ら八百の奇兵を投入して楽郷を奇襲、巴山では煙と旗で大軍を偽装。
この陽動に呉の軍民は混乱し、戦意も士気も一気に削がれていく。

そして迎えた江陵戦、守将の伍延は、降伏を申し出てきた。
だがこれは、兵を油断させて夜襲をかける典型的な偽装投降。
杜預はその企みをすぐに見破り、伍延を斬首して城を制圧。
一連の作戦における、読みと速断、そして冷徹な判断。ここに名将・杜預の真価が浮き彫りとなった。

破竹の勢いの進撃戦!奇襲と偽装の天才軍略

江陵を奪った杜預の快進撃は、ここからが本番だった。
王濬が呉の水軍都督・陸景を討ち取り、南方の州郡も次々と降伏。
情勢はまさに“呉崩壊前夜”。杜預は零陵・桂陽の鎮守を任され、着々と制圧地域を広げていく。

だが、ここで軍議は足踏みを始める。
「いくらなんでも早すぎる」「呉がこんな簡単に落ちるはずがない」
「春になれば長江の水位が上がる。駐兵もままならない」
そんな慎重論が次々と噴き出すなか、杜預は真っ向から反論した。

「かつて楽毅は、膠西の一戦で強大な斉をほぼ制した。
今、我が軍の士気はそれ以上だ。竹を割るように突き進める」
この発言こそが、成語「勢如破竹」の語源である。
最初の数節さえ割ってしまえば、竹は刀を迎えるように裂けていく。
もはや止める理由は何もなかった。

杜預は各軍に的確な進軍方針を指示し、勝ち馬に乗るだけの部隊ではなく、攻勢の起点として全体を牽引した。
やがて王濬と王渾が建業を攻略し、孫皓はついに降伏。
杜預はこの功績により当陽県侯に封じられ、領地は9,600戸に拡大。
そのうえ、息子の杜耽も亭侯に叙され、さらに絹8,000匹が与えられるという豪華な恩賞が授けられた。
そのまま江南に駐留し、戦後処理と安定化にも一役買うこととなった。

文廟と武廟を股にかけた唯一の男

太康五年(285年)、杜預は司隷校尉に任じられるも、赴任途上で病没。
享年六十三。皇帝・司馬炎は深く哀悼し、征南大将軍・開府儀同三司を追贈、「成侯」の諡号を贈った。

その名は死後も燻らず、むしろ燃え広がる。
唐代、太宗・李世民は杜預を孔子を祀る文廟へ祀り上げ、続く唐徳宗・李適の時代には、武廟にまでその名を加えた。

学者として孔子の横に、武将として太公望の列に──この二つを兼ねた者は、杜預ただ一人。
書と剣、学と戦。どちらにも全振りして、それでいて破綻しなかった男は、歴史上でも稀有だった。

杜預は死してなお、知と武を一つの身体に収めた“特異点”として、後世の評価を独占し続けている。

学者か軍人か:文武両道の“杜武庫”伝説

杜預の人生は、「勉強ができる子」だった、で終わらない。
むしろその知識が、政も戦も変えてしまった。
彼は春秋・左伝に異様な執着を持ち、自ら「左伝癖」と名乗る変態的な愛読者。
その愛が暴走した結果、『春秋経伝集解』をはじめとする注釈書をいくつも書き上げ、唐代以降の必読文献にしてしまった。

だが、この男の本領は“現場”にある。
度支尚書としては、財政を見直し、水利を整え、刑律もいじった。
要するに「予算も治水も法も俺に聞け」という、万能の政策オタクだった。

武の分野ですら例外ではない。
体格は凡庸、弓も馬もダメ、そんな彼が軍で結果を出せたのは、作戦の読みと判断の冷静さにあった。
「知識で戦争する」なんて、普通は無理。でも杜預はそれをやった。

その知と実行力の融合から、人々は彼を「杜武庫」──知の兵器庫と呼んだ。
勉強だけしてたってダメ。けれど、勉強した奴が戦場で勝つと、こうなる。

参考文献

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