1分でわかる忙しい人のための孫休の紹介
孫休(そんきゅう)、字は子烈(しれつ)、出身は呉、235年~264年
孫休は呉の皇帝孫権の第六子として生まれ、孫亮の後を継いで即位し呉の三代目皇帝である。在位は6年間と短いが、その間に専横を極めた孫綝を誅殺し、文化政策を推進したことで知られる。
少年期には学問を修め、琅邪王に封じられるも、地方に転々と移される波乱の皇子時代を過ごした。即位は政変によってもたらされたが、彼は巧みに孫綝を排除して政権を掌握した。
政治面では国学を設立して五経博士を置き、農政改革に取り組み租税を軽減するなど文治を重視した。また軍事では蜀の滅亡に乗じて巴東攻略を試みたが、魏の救援によって失敗に終わり、国内では叛乱や海賊問題に直面した。
永安七年(264年)、孫休は病に倒れて30歳で崩御した。後継には甥の孫皓が擁立されるが、その苛政により孫休の妻朱皇后や子息たちは悲劇的な最期を遂げた。短命ながら、孫休の治世は呉後期の政治的転換点を示すものであった。
呉の景帝・孫休を徹底解説!専横の孫綝誅殺、国学設立、蜀攻略失敗と短命政権の実像
皇子としての誕生と少年期の学問修養
嘉禾四年(235年)、孫休は呉の皇帝・孫権と王夫人(孫和の母とは違う)の間に生まれた。孫権の六男にあたる。
幼少期の具体的な記録は多く残されていないが、十三歳の頃には中書郎の謝慈、郎中の盛冲といった学者の指導を受け、経書を中心とする学問を学んでいたと伝えられる。皇子としての教育の一環であり、この時期に得た教養が、後の政治姿勢に少なからぬ影響を与えたと考えられる。
琅邪王として封じられ流転の始まり
太元二年(252年)正月、十八歳の孫休は琅邪王として広く知られる土地に封じられ、虎林に居を構えた。その数か月後、父・孫権が崩御し、孫休を差し置いて弟・孫亮が皇帝の座を継ぐ。政権の実権は太傅・諸葛恪が掌握した。
諸葛恪は、王族が地方で兵を保持することを快く思わなかった。結果、孫休は琅邪を離れて丹楊郡へと移ることになる。ここで彼が直面したのは、厳しい太守・李衡。いい意味では無骨、悪い意味ではやりすぎな性格で、孫休は常にプレッシャーにさらされた。
李衡は庶民出身ながら出世し、諸葛恪の司馬にまで登りつめた。規律には舌鋒鋭く、誰彼かまわず厳格な態度を崩さない。孫休も例外でなく、たびたびその標的となった。苦難を重ねた孫休は、ついに上奏して転任を願い出る。会稽への移動が許されると、ようやく少し落ち着きを取り戻した。
孫峻・孫綝の専横と一族の悲劇
孫休が会稽へ移った直後、呉の実権は孫峻に握られつつあった。彼は勢力を背景に振る舞い、孫休の姉・孫魯育を不当な罪で殺害する暴挙に及んだ。
この知らせを受け、孫休は権臣の横暴を恐れ、妻・朱氏を建業へ避難させた。二人は涙をこらえつつ別れを告げたという。
ところが朱氏が建業に着くと、孫峻の命によりすぐに送還された。権力の意図に翻弄され、夫妻は自由に動くことすら許されなかった。
政変と即位の過程
太平三年(258年)、孫綝は動き出した。孫亮を廃して会稽王へ落とし、代わって孫休を皇帝に据えようと画を描いた。宗正・孫楷や中書郎・董朝が使者として派遣され、孫休に事情を説明した。最初は身構えていた孫休だが、使者の言葉にやがて受け入れて出発した。
曲阿に着くと、民衆は道で頭を垂れて迎え、百官は法駕を整えて恭しく迎出す。武衛将軍・孫恩は兵を率いて礼を整え、孫休を便殿に導いた。その場は、即位の舞台装置として設えられた一大劇場のようだった。臣下たちは孫休に皇帝即位を請うたが、彼は三度辞退する。だが三度目にはこう言った。「将相や諸侯がすすめるなら、玉璽を受け入れぬ道もない」こうして、まるで劇の茶番のような展開で、孫休は璽符を受けてついに即位を受け入れた。
即位当日、孫休はまず大赦を布く。元号を「永安」に改め、政権交替の象徴を刻む。しかし人事は、孫綝を丞相兼荊州牧、孫恩を御史大夫兼衛将軍、孫據を右将軍に据え、いずれも県侯とした。孫幹を雑号将軍・亭侯に、孫闓も亭侯に封じた。孫綝一門が牛耳る体制は変わらなかった。
かろうじて、孫休のとりまきの長水校尉・張布が輔義将軍になり永康侯に、董朝が郷侯に封じられた。こうして孫綝一族は五人が侯爵となり、禁軍を掌握。実質の支配者としての存在感を強める。
旧敵・李衡は咎められず、むしろ威遠将軍に任じられている。
孫綝誅殺を実行する
将軍・魏邈は孫休にこう進言する。
「孫綝が外へ出れば、次に帰ってくるのは兵を連れてのはずです」
さらに武衛士・施朔も火に油を注ぐように加勢する。
「あれは反乱を起こします。証拠もあります」 そんな不穏な口コミ2件で、「いや、証拠って何?」とか一切聞かず、孫休の心を決定的に傾かせた。
とはいえ、相手は呉の黒幕・孫綝である。正面からぶつかれば孫亮同様、廃帝の憂き目もありえる。 永安元年(258年)の末、ついに孫休は孫綝討伐を決意し、密かに張布に打診し、さらに剛腕・丁奉を引き込み策を巡らせる。 決行は「宴会」で酔わせて殺害という、誰でも思いつきそうな計画であった。
しかし、いざ招いても主賓がなかなか来ない。孫綝は「病気」を盾に招待を断り続けた。孫休はそれでもあきらめず、十数回も使者を送り、さすがに皇帝の誘いを断るわけにもいかず、嫌々ながらも承諾させることに成功した。
その宴席、孫綝は落ち着かず、早々に退席しようとした。だが、その瞬間を待っていた丁奉らが動く。武士たちが一斉に孫綝を取り囲み、あっという間に捕縛。孫休はその場で罪状を読み上げ、迷いなく斬首を命じた。
こうして孫綝は地位も命も失い、三族も処刑され、その名は呉の政権から跡形もなく消えた。
政権刷新と赦免政策
孫綝の誅殺が実行されるや否や、孫休は即座に大赦を布告した。さらに孫峻の棺を削って薄くし、あらためて葬らせるという所業で、一族に屈辱を与えた。孫峻・孫綝・孫耽は宗籍から除名され、「故峻」「故綝」と呼ばれることとなった。かつての栄光は徹底的に剥奪され、一族の名誉は跡形もなく消された。堂兄から受け継がれた専横の血脈は、ここで断ち切られたのである。
孫休は詔を以て、「諸葛恪・滕胤・呂拠らは無罪であったにもかかわらず、孫綝兄弟の専横により害されたことは、痛心に堪えない」と明記し、改葬および祭祀を命じた。また、流罪に処された者たちにも召還令を出し、名誉と地位の回復を図った。
同時に、誅殺に関与した者たちには恩賞を与えた。左将軍・張布は中軍督に昇り、張惇は都亭侯に封じられて兵三百を与えられ、張恂も校尉に選ばれた。丁奉も例に漏れず昇進と賞与を受け、忠義を示した者には確実に報いを与える姿勢が示された。
この一連の政策は、孫綝以来続いた権臣政治を“封じ込める”転機となった。孫休は強硬さと恩賞を武器に、政権の再構築を図ったのである。
国学設立と文化振興
永安元年(258年)、孫休は唐突にこう言い出した。「古来、建国にあたっては教育を先とした。だが近年は多事のために人々が末事に走り、根本を失っている。学問を軽んじれば風俗は乱れる」 ようは、乱世の真っ只中で「まず学校つくろうぜ」と宣言した皇帝は、歴代でもかなりレアキャラである。刀ではなく書物を手に掲げたこの姿勢が、彼の政治のひとつの象徴となった。
こうして呉初の「国学」が設立される。立ち上げられたのは単なる読書会ではなく、五経博士が任命され、トップには学界の重鎮・韋昭が「学長(博士祭酒)」として抜擢された。
学生はどこから集めるかというと、官吏や将吏の子弟の中から好学の者を選び、国学で学ばせる。一年ごとに課試を行って成績を定め、優秀者には位や賞を与えるという、「勉強=昇進ルート」制度が導入された。
孫休としては、「学問を重んじれば風俗が正される」と信じ、教育による政治の立て直しを図った。
結果、武功に乏しい治世ではあったが、この文化振興政策だけは後世に記録されることになる。国学の創設は、「読み書きそろばん皇帝」孫休の面目躍如たる成果だった。
農政改革と民政
永安二年(259年)春正月、雷鳴と稲妻が轟き、三月には九卿の官が整えられた。その折、孫休は農政と民政に関する長文の詔を発した。
「徳の薄い身で王公の上に立ち、日夜おののき、寝食を忘れている」と自らを省みつつ、「武を偃め文を修め、大化を崇めるべきである」と宣言。その根本は農桑にあると説いたのである。
詔には『管子』の言葉が引用された。「倉廩が満てば礼節を知り、衣食が足りれば栄辱を知る」。孫休はさらに「一人が耕さねば誰かが飢え、一人が織らねば誰かが寒さに苦しむ」と強調し、飢寒に苦しむ民が悪事に走らないことなどないと断じた。
彼はまた、近年は州郡の吏民や兵士までもが農桑を怠り、長江を往来して商売に励んでいるため、良田が荒廃し、穀物は減少していると指摘。その原因は、租税が重く農人の利が薄いことにあると分析した。
そこで孫休は、田業を広げ賦税を軽くすること、強弱に応じて課役を差等化することを命じた。各家が十分に養えるようになれば、民は自ら命を重んじ、法を犯さなくなる。そうなれば刑罰に頼らずとも風俗は整う、というのが彼の論理であった。
「忠賢の臣が尽力すれば、太古の盛化には及ばなくとも、漢文帝の治世には近づける」と結論づけたこの詔は、単なる経済政策ではなく、社会秩序そのものを立て直そうとする包括的な民政改革だった。
自然現象と孫亮の処分
永安三年(260年)の呉は、まるで「今日は何が起きる?」という現象や出来事が記録された年だった。春三月、西陵には赤烏が飛来し「吉兆です!」と記録され、建徳県では大鼎が出土して「王権のシンボルきた!」と報告され、お祝いムードに盛り上がる。
同じ年、会稽郡では前帝・孫亮の復位を願う噂が広がる。そこに孫亮の宮人が「孫亮は巫女に祈祷させ、祭祀の場で悪口を言っていた」と告発。結果、孫亮は会稽王から侯官侯に降格され、福建の侯官(今の福州市)へ送られることになった。 だが孫亮はその途上で自殺。護送役の役人たちは責任を問われ罪に処された。『三国志』にはこう記されているが、裴松之が引く『呉録』には「実は孫休が鴆毒を使って暗殺した」という異説まで登場する。晋の太康年間には、呉の旧臣・戴顒がその喪を迎え、賴郷に改葬したという。
永安四年(261年)に入ると、天候イベントも続発。夏五月には大雨で水泉が湧き出し、秋八月には光禄大夫の周弈と石偉が各地を巡察して「役人の清濁」や「民の苦しみ」を調査、昇進・罷免を決める詔が出された。九月には布山で白龍が現れたとの報告があり、さらに安呉の民・陳焦が埋葬から六日後に生き返るという「ゾンビ案件」まで記録されている。
浦里塘築造と民衆の怨嗟
せっかくの民政改革も永安三年(260年)の浦里塘の建設で評価を落としてしまうことになる。
浦里塘とは、都尉・嚴密が「湖を囲って田んぼにしよう!」とぶち上げた巨大公共事業。百官は全力で「いや無理ですって!金も人も足りません」とストップをかけたが、濮陽興だけは「いや、できる」と主張し、ついに兵士を動員して本格的に着工された。 ところが現実は甘くなく、工事は難航を極め、士卒はバタバタ倒れ、盗賊に襲われる者まで出る消耗戦に突入してしまう。コストは青天井で、民衆の怨嗟は爆発寸前。民衆には「赤烏が来た?大鼎が出た?知らんがな!」というレベルで、吉兆どころか民心を大きく損なうプロジェクトになってしまった。
こうして見ると、孫綝・孫峻時代に比べると一応は平和なのだが、その平和は「奇現象カタログ」や「公共事業地獄」付きの、どこか落ち着かない日々でもあった。
太子冊立と学問への姿勢
永安五年(262年)、呉では天変地異が相次いだ。春二月には白虎門北楼が炎に包まれ、夏には始新に黄龍が現れ、八月には大雨と雷鳴が轟き、水泉が地より噴き出したと伝えられる。
そんな年の乙酉、孫休は朱氏を皇后に立て、戊子の日には長子・孫ワンを太子に冊立した。同時に大赦が布かれ、皇統の安定を祈る儀式が整えられた。
ここで孫休は謎ムーブを披露する。「人の名は忌避されやすい。世にない字を使えば避けられにくい」と、辞書にも載っていないような創作漢字を使って、世には見られない名と字を与えた。しかしこれが裴松之には「名は礼治の基、奇怪な字は正道に背く」と批判され、後年の運命との因縁を見る者もあったという。実際当ブログで漢字で表現できない。
冬十月、孫休は濮陽興を丞相に起用し、廷尉の丁密と光禄勲の孟宗を左右御史大夫とした。側近の張布には宮中の政務を多く任せた。
一方、孫休自身は書を好み、百家の説を広く学ぼうとした。博士・韋曜や盛沖との講義を志したが、それを見た側近の張布が眉をひそめる。「皇帝が本なんか読んでると、オレらの立場が…」と、圧をかける。 孫休は「書を好むは害ではない」と主張したが、張布の不機嫌オーラに折れて講義を中止せざるを得なかった。権力のはざまで揺れる姿勢こそ、彼の治世の曖昧さを象徴している。
またこの年、孫休は交阯に察戦を派遣し、孔爵・大豬らを徴発して南方統治にも力を入れた。 歴史書には簡潔に書かれているが、実際には「南方でイノシシ狩りと原住民の説得を同時にやる」ような難題であったはず。 こうして永安五年は、皇統の儀式、読みづらい名前、学問志向の空回り、南方対応と、いろんな意味でツッコミどころ満載の一年となったのである。
交阯の呂興の乱
永安六年(263年)、呉の南端・交阯郡で大きな騒ぎが持ち上がった。郡の官吏、呂興が太守・孫諝を殺害し、そのまま郡全体を巻き込む叛乱を起こしたのである。
背景には、孫諝による過剰な人員徴発があった。すでに工人千人以上を建業に送り出したうえ、またもや戦への徴発があるのではと怯える民衆の不満が限界を迎えていた。呂興はこの鬱憤を見逃さなかった。彼は民と兵をうまく扇動し、周囲の夷族にも声をかけて勢力を増大。反乱は単なる一揆ではなく、呉の南方支配を根底から揺るがす動きへと発展していく。
呂興は孫諝殺害後、魏に使者を送り、「太守やってもいいよ、兵もお願い」とばかりに援軍と任命を要求。明らかにこれは呉への反旗であり、濮陽興ら中枢部はこれに強く反応した。
濮陽興は屯田兵から1万人を召集し、体制の立て直しに動いた。また行政上も、武陵郡の一部を切り離して「天門郡」を新設するという、南方再編政策が取られた。
ちなみにこの年、長沙で青龍が現れ、慈胡では白燕が舞い、豫章には赤雀が飛来したという。瑞兆か、それとも不穏の予兆か。呉という国家が、南方の混乱の渦中で何を見たのか。それを問うような一年であった。
蜀滅亡と呉の出兵挫折
永安六年(263年)の冬、蜀から「魏が攻めてきた、こっちはもう限界だ」という悲鳴混じりの急報である。呉の皇帝・孫休は即座に反応、軍を動かして蜀の救援に乗り出した。
丁奉を寿春に、留平を南郡に、さらに丁封と孫異を漢水へと分派し、魏の兵を分散させる作戦で、慌ただしく出兵体制を整えた。しかしその動きの最中、届いた続報は「劉禅、もう降伏済み」で、呉の軍事行動は空しく中止となり、呉は蜀を助けることなく、その滅亡を見届ける結果に終わったのである。
翌年、永安七年(264年)。蜀が滅びた今こそ好機とばかりに、呉は旧蜀領への侵攻を決行する。鎮軍将軍・陸抗、撫軍将軍・歩協、征西将軍・留平、建平太守・盛曼ら、そうそうたる顔ぶれが西へ進軍。標的は、巴東を守る羅憲。
この包囲戦、半年に及んだが、羅憲は一歩も退かず。呉軍は城を落とせぬまま、時間だけが過ぎていく。その間に魏が西陵へ胡烈を派遣し、歩騎二万の軍勢で攻めてくる。呉軍は挟撃を恐れて撤退し、蜀の旧領には一つも得られなかった。
孫休の蜀援助作戦と、蜀領奪還作戦。どちらも結果は「徒労」の二文字に尽きる。まるで時差のズレた会話のように、呉の軍事行動は常に一歩遅れ、成果を上げることはなかった。
各地に広がる反乱と国内不安
蜀が滅んだその頃、呉の中も不安定な情勢が続いた。永安七年(264年)の夏、魏の将軍・王稚が、まさかの海越え句章を強襲し、長官・賞林を拉致し、ついでに男女二百人以上をかっさらっていった。
呉軍も手をこまねいていたわけではない。孫越が追撃し、奪われた船1隻と人員30名をなんとか回収。だが、それ以上は手が出ず、敵の進入自体は止められなかった。
追い打ちをかけるように、秋には海賊が海塩を襲い、司塩校尉の駱秀が命を落とすという、物流も人材もダブルで損なう事件が起きる。
その上、廬陵では反乱が勃発する。対応に追われた中書郎・劉川が兵を派遣して火消しに走るが、同じ頃、豫章では張節率いる叛徒集団が1万人規模にまで拡大。もはや「地方の小競り合い」という可愛い規模ではなく、国家単位の頭痛になっていた。
これら一連の動きは、蜀滅亡後の呉が、急速に国力を失っていたことを如実に物語っていた。孫休は必死に各地へ軍を送り、何とか政権をつなぎとめようとするが、焼け石に水で政権の屋台骨は、じわじわと軋み始めていた。
助けたかった蜀は滅び、奪いたかった旧地は取れず、せめて安定させたい国内では反乱が頻発する。孫休の政権後期は、まさに「外もダメ、中もダメ、気持ちも折れかけ」の三重苦に包まれていた。
病没と孫皓擁立、孫休一族の悲劇
永安七年(264年)七月、孫休は重い病に倒れ、声を発することができなくなった。しかし筆を取り、書いて意思を伝えることはできた。
七月二十四日、大赦を布告。世の中に少しでも良い印象を残そうとしたのか、それとも最後の気力だったのか。その翌日、孫休は三十歳という若さで没した。諡は景皇帝。『江表伝』によれば、臨終の床で丞相・濮陽興を呼び、太子・孫ワン(「雨」の下に「單」)を指差して後事を託したという。しかし、事態は皇帝の願い通りには進まなかった。
孫休の崩御を受けて、呉の朝廷は後継問題が起こる。
そこで立ち上がったのが、左典軍の万彧である。彼は孫登の子の烏程侯・孫皓を強く推し、「彼は長沙桓王の血を引き、聡明で学を愛し、法にも忠実。いわば、今すぐ使える帝王候補であります」と何度も猛プッシュ。
濮陽興と張布はこのプレゼンを素直に受け取り、朱太后に報告した。
朱太后は「私は政事のことは分からぬけれど、国に損がなく、祖先に恥じぬなら、それでよいでしょう」と一言で、実に清々しい放任スタイルであった。
かくして、大将軍・丁奉らとともに、兄・孫和の子である孫皓が迎えられ、ついに呉の皇帝に即位することとなった。
ここから先は、悲劇というよりも「粛清の教科書」のような展開が待っていた。孫皓は即位してわずか数ヶ月後の元興元年(264年)十一月に、孫皓にとって恩人である濮陽興と張布を容赦なく誅殺する。
さらに翌年の甘露元年(265年)七月、朱皇后に対しても自殺を強要し、その葬儀すら簡素に済ませた。宮中の小屋で営まれたその葬儀は、皇后としての体面も何もないものであった。
孫休の子らも例外ではなかった。呉小城へ移送された彼らは、やがて次々と命を奪われ、一族はわずか数年で歴史の表舞台から完全に抹消された。
孫休の陵墓は「呉定陵」とされるが、その場所は史書にも残されておらず、後世にも伝わっていない。書いて伝えたはずの意志も、託されたはずの後継者も、誰一人として皇帝の願いを叶えることはなかった。
孫休の評価
裴松之は『三国志』の注において、孫休の人物像を次のように評している。
孫休は旧来の恩義を重んじ、濮陽興や張布といった側近を厚遇したが、その一方で真に優れた人材を抜擢して新しい体制を築くことはできなかった。
確かに彼は善を志し、学問を愛し、国学を設立するなど文化の振興に力を注いだ。しかし、それが戦乱の世を救う実際的な力となったかと問われれば、答えは否である。
また、すでに帝位を廃されたとはいえ、同じ兄弟である孫亮を赦さず、ついには死に追いやった。その情義の薄さも、評価を下げざるを得ない点とされた。
裴松之の評は、孫休という人物を「善意はあれど実効性に乏しく、文化人としての理想はあっても皇帝としての器量に欠けた」と断じているのである。
確かに国学設立など文化政策には一縷の光もあった。だが、反乱は多発し、領土は減り、兄弟には冷酷。皇帝の職務として見るなら、答案用紙は落第の赤点である。
二宮の変から荒れた呉を六年でも、無事に座っていられたことを評価すべきか。それとも、その間に呉という国の傾きを止められなかったことを攻めるべきか。孫休とは、そんな問いを残す皇帝だった。
参考文献
- 三國志 : 呉書三 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十九 : 濮陽興傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十九 : 孫綝傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十五 : 鍾離牧傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻078 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:孫休 – Wikipedia
孫休のFAQ
孫休の字(あざな)は?
孫休の字は子烈(しれつ)です。
孫休はどんな人物?
孫休は文化を尊び、国学を設立して学問を奨励しました。政治では農政改革に努め、民生の安定を図りましたが、軍事面では大きな成果を挙げられませんでした。
孫休の最後はどうなった?
孫休は永安七年(264年)に病に倒れ、30歳で崩御しました。後継には孫皓が擁立されましたが、その苛政によって孫休の妻朱皇后や子息は悲劇的な最期を遂げました。
孫休は誰に仕えた?
孫休は呉の皇帝として即位したため、誰かに仕えたわけではありませんが、即位前は兄孫亮の治世下にあって諸葛恪や孫峻・孫綝といった権臣の圧迫を受けていました。
孫休にまつわるエピソードは?
孫休は息子たちに世に存在しない字を組み合わせた独特の名前を与えました。これは避諱を避けるためとされていますが、裴松之はこれを批判し、後世の笑いものとなったと記録しています。
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