1分でわかる忙しい人のための郭汜の紹介
郭汜(かくし)、字は不明、出身は涼州張掖、生没年(146~197年)
後漢末期、郭汜は盗馬賊から身を起こし、やがて董卓の娘婿・牛輔の配下として正式に軍に属する。初平三年(192年)には李傕・張済らと共に朱雋を攻撃し、戦果を挙げて名を上げた。
その後、董卓と牛輔が殺されると、王允に赦免を拒まれた郭汜らは賈詡の進言を受けて長安に攻め入り、王允を殺害し、呂布を都から追い出すことに成功。李傕と共に朝廷を牛耳り、揚烈将軍・後将軍・車騎将軍と次々に昇進、中央政界に深く食い込んだ。
しかし権力を巡る対立は避けられず、かつての同盟者・李傕と激しく争い、「李郭の乱」と呼ばれる内戦を引き起こす。献帝をめぐる拉致や東遷の混乱を経て、ついに建安二年(197年)、部下の伍習によって誅殺される。
権力と混乱の象徴のような生涯を歩んだ。、
郭汜を徹底解説!馬盗賊から中央を動かした残忍の将
盗馬賊から董卓配下へ、牛輔軍で頭角を現す
涼州張掖の出身で、もとは馬泥棒であった。
当初は国家の敵でありながら、のちに国家の守護者を名乗るようになるのだから、世の中の肩書ほど信用ならぬものはない。
やがて時代が荒れ、董卓が都を握ると、娘婿である牛輔の部下となる。
初平三年(192年)、郭汜は牛輔の命令で李傕・張済とともに数万の兵を率いて朱雋を中牟を攻めて、結果は快勝する。
しかしその後に行ったことがひどい。陳留や頴川の地を片っ端から略奪し、まるで勝利の代償に民を処罰したかのような振る舞いだった。
長安掌握と王允・呂布追放、李傕と共に中央を牛耳る
初平三年(192年)、主君董卓が王允と呂布によって殺され、郭汜は寄る辺を失った。赦免を断られた彼は、李傕・張濟らと共に賈詡の進言を受け入れ、盗賊魂に火をつけた。
李傕、張済、そして郭汜の三者は報復のため長安へ進軍を始める。 兵は日夜兼行で増強され、旧知の仲の徐栄・胡軫を撃破しながら、長安へ突入した。途中で董卓残党の樊稠らとも合流し、南宮掖門で呂布との市街戦が始まる。
剣戟が交わる中、郭汜らは勝利を手にし、呂布は敗走。王允は捕らえられ、その一族を皆殺しにした。復讐劇は血の海のなかで幕を閉じた。
戦勝により郭汜は揚烈将軍に任命され、のちには後将軍・美陽侯に昇進する。李傕・樊稠らと並んで朝政を掌握し、思うままに官僚を任免した。実質的な中央政府の主導者となった彼らは、軍勢を用いて関中の三輔一帯を蹂躙したため、民衆の被害は極めて甚大であった。国家はもはや看板だけの存在。郭汜たちは、国という檻のなかで狼となった。
李郭の乱の序章:李傕への疑念
興平元年(194年)、郭汜は李傕の命を受けて、樊稠らとともに馬騰・韓遂の連合軍を長平観で迎撃。見事これを大破し、一万以上の敵兵を討ち取る戦果を挙げる。戦功により「開府」の栄誉を賜り、李傕・樊稠と共に六府の一角を占め、政権中枢に並び立つ存在となった。しかし、この勝利の裏で彼らは災害救済の資金すら掠め取り、民衆の命と引き換えに権力を貪る暴君へと堕していく。
そんな折、李傕が仲間の樊稠を謀殺したことをきっかけに、同志だった李傕への不信が郭汜に襲いかかる。
李傕はしばしば自宅で郭汜を宴に招き、ときには郭汜を泊まらせることもあった。
そんな中、郭汜の妻は、李傕が婢や妾を郭汜に贈るのではないかと恐れ、二人の仲を引き裂こうとし 「李傕はあなたを毒殺しようとしている」と忠告する。
贈られた料理の豆豉を毒と決めつけ、取り除いたことで、郭汜は恐怖を抱く。別の日、酩酊するまで酒を飲まされた郭汜は、命の危機を感じ、自ら糞汁を飲んで解毒を図るという異様な行動に至る。疑念が疑念を呼び、恐怖から反撃へと心が変わっていった。
李郭の乱の勃発:長安が火の海と化す
ついに両者は兵を挙げ、武力衝突へと発展、戦火は長安城内へ飛び火しする。 死者は「万」単位に膨らみ、「ごめん、ちょっとだけ戦うつもりだったのに」で済まずに、ただただ、都市は血の浴場と化し、漢献帝の威信は地に落ちる。
帝自ら和平を試みるも、両者とも応じず。郭汜は天子を拉致しようと画策するが、李傕が一歩早く漢献帝を自陣へ連れ去る。対抗して郭汜は、調停に派遣された公卿たちを脅して手中に収め、さらには李傕軍中の張苞と連携して反撃を仕掛けるも、楊奉に阻止される。
献帝は再び使者として皇甫酈を送り、和議を申し入れる。郭汜はこれを快諾したが、李傕はなおも拒否。怒った皇甫酈は李傕を面罵し、両者の亀裂は決定的となる。だがその後、楊奉が李傕に反旗を翻し、その勢力は急減。最終的に鎮東将軍・張済が登場し、調停を試みたことで、ようやく郭汜と李傕は和解へと至るのだった。
献帝の奪還:内輪揉めで東遷に失敗
興平二年(195年)七月、漢献帝はついに長安を出て東遷を開始。郭汜もまた、董卓旧部の一員として天子の護衛に加わり、車騎将軍・美陽侯に任ぜられる。張済、楊定、楊奉、董承らと共に、天子の輦を護りながら東へ向かったが、道中では将軍たちの利害が衝突し、争いが絶えなかった。
そんな中、郭汜は突如として献帝を郿へ引き戻そうと試みるが、楊定らの警戒に阻まれ計画は頓挫。 郭汜は意を決して李傕・張済とともに再起を図り、楊奉らを撃退することに成功するが、献帝は混乱を嫌ってまた逃亡し、結局は張楊の庇護下へ向かう。
張済はその後、軍糧不足を補うため南陽へと出兵し、穰城を攻めた末に戦死。これにより旧董卓派の中核は崩れ始め、郭汜の地位も安泰とは言えなくなる。やがて、内部崩壊と猜疑に揺れる李郭政権は、献帝を取り巻く戦乱の中で無力さをさらけ出していく。
郭汜の最期と評価
建安二年(197年)、権力闘争に明け暮れた郭汜は、ついに自らの部将である伍習の反乱により郿で殺害される。これは郭汜が政敵である李傕に対し対抗心を燃やし続け、軍事的緊張が極限に達した末の悲劇であった。彼の死後、残された軍勢はすべて李傕に吸収され、郭汜の名を冠した勢力は実質的に消滅した。
同時代の侍中で『献帝起居注』の作者でもある劉艾は、李傕と郭汜の軍事的才能を高く評価していた。彼は「孫堅の用兵は李傕・郭汜に及ばない」と述べ、関東で猛威を振るった孫堅以上と評したのである。
これは董卓軍において李傕・郭汜が最も頼りとされた宿将であったことを示している。
実際の戦歴を見れば李傕は確かに強者であった。
朱儁を撃破し、曹操・孫堅を退けた徐栄を討ち取り、呂布を大敗させ、さらには馬騰・韓遂の連合軍を打ち破ったのは郭汜の指揮があってこそだった。
参考文献
- 参考URL:郭汜 Wikipedia
- 《後漢書·巻七十二·董卓列伝第六十二》
- 《三国志·魏書六·董二袁劉傳》
- 《資治通鑑·漢紀五十二・五十三・五十四》
FAQ
郭汜の幼名は?
郭汜の幼名は阿多(あだ)で、郭多とも呼ばれていました。
郭汜はどんな人物?
郭汜は盗馬賊から諸将に転じ、董卓の末路から政権を掌握した冷酷かつ果敢な武将です。
郭汜の最後はどうなりましたか?
建安二年(197年)、郿で部下の伍習により誅殺されました。
郭汜は誰に仕えていましたか?
最初は董卓の娘婿・牛輔に仕え、その後は李傕と共に長安を掌握しました。
郭汜にまつわる逸話は?
朱雋、呂布、馬騰・韓遂連合軍を倒す猛将として描かれています。
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