管承:黄巾軍の海賊、楽進・李典・張郃に討伐された最後

黄巾1

管承を徹底解説!海賊化した黄巾軍と討伐の顛末

海賊化した黄巾軍:管承の招安と逃亡劇

管承(かんしょう)、字・出身不詳、生没年(?~?)
黄巾の乱が全土を揺るがした後、その残党たちは各地で”地方の厄災”と化していく。
青州に拠った管承もその一人だった。
当初、管承は黄巾軍として陸上で活動していたが、のちに組織は海賊へと変質。
水軍も持たない地元官吏にとっては、まさに”手が届かぬ難敵”だった。

長廣の太守であった何夔は、力によらず招安(職や恩典を与えて降伏を促す)という策を選ぶ。
荒れる海の波間に希望を見出したかったのか、管承もこれに応じ「これからは、私も公務員です!」と宣言したとか。だが、この和平は一時的なものであり、根本的な解決にはならなかった。

建安十一年(206年)、曹操が海賊化した残党への討伐を決意。命を受けたのは、楽進・李典・張郃という曹操麾下でも猛将として知られる面々であった。陸戦の強者たちが沿岸を締め上げる形で追い詰められた管承は、最終的に海島へと逃亡。
討伐戦の詳細な記録は乏しく、管承のその後の消息も不明である。討たれたか、逃げ延びたかさえ定かではない。だが、史書が彼の名を記しているのは、あくまで“反体制勢力の末路”の一例としてだろう。管承は、武将というより、動乱に抗った野生の証人だったのかもしれない。

参考文献

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