1分でわかる忙しい人のための趙儼の紹介
趙儼(ちょう げん)、字は伯然(はくぜん)、出身は潁川郡陽翟県、生没年(171~245年)
後漢末から魏に仕え、司空にまで昇った官僚である。
乱世にあって民心を最優先に考え、威厳と恩徳を併用する統治で地方を安定させた。
官渡戦前の陽安郡では、徴発を抑えて民を慰撫し、荀彧を通じて物資返還を実現させた。
中央では于禁・楽進・張遼らの不和を調停し、荊州征伐後は七軍を統率して関中経営を担った。
反乱鎮圧では首謀者のみを処罰し、広範な赦免で人心を掌握する判断力を示した。
樊城の戦いでは持久策を主張し、関羽追撃を戒めるなど、戦略的視野の広さを発揮した。
剛毅で決断力がありながら節度を失わず、辛毗・陳羣・杜襲と並び称された人物である。
趙儼の生涯を徹底解説!曹操政権を支えた調整型官僚の政治と軍事判断力
乱世を避けた荊州滞在と曹操評価
後漢末、天下が大きく乱れる中で、さっさと荊州へ退避する。
この地で杜襲・繁欽と行動を共にし、財産を通じて計画を共有し、同じ家族のように生活していた。
これは一時的な避難ではなく、将来の身の処し方を見定めるための滞在であった。
建安元年(196年)、曹操が献帝を迎えて許都を都としたという知らせが届く。
趙儼はこれを、英雄譚の始まりではなく、時代の歯車が正しい位置に戻った合図と見た。
繁欽に対し、曹操は天命に押される形で表舞台に立ち、中華を立て直せる人物だと語っている。
そして、自分が戻るべき場所は、すでに決まったと淡々と告げる。
荊州での静観は、逃避ではなく準備だった。
曹操政権に身を投じるという選択は、この時点でほぼ完成している。
乱世において最も危険なのは、何も決めないまま様子を見ることだと、趙儼は理解していたのである。
朗陵県で豪族を抑え込んだ統治
建安二年(197年)、趙儼は二十七歳であった。
家中の老弱を扶けて曹操のもとへ赴き、謁見を果たすと、朗陵県長に任じられる。
若年での就任ではあったが、地方統治の現場を任される立場となった。
朗陵県は、豪族と悪賢い者が好き放題やる、いわば法の通用しない空間だった。
歴代の官吏は形ばかり座っては、何もせずに去っていった。
趙儼は到着早々、最も目立つ連中を選び、まとめて捕縛して取り調べを行った。
調べてみれば、どれも死罪相当の案件ばかりで、言い逃れの余地はない。
趙儼は一度牢に収監したものの、即断で処刑することは避けた。
上司の役所に上表し、正式な手続きを経たうえで、釈放する措置を取っている。
命を救われた者は趙儼の処置を忘れず、周囲の者はその判断力を畏れた。
威厳と法の運用、その両立を示したことで、朗陵県の秩序は回復へ向かう。
この統治は、後年まで続く趙儼の行政姿勢を示す、初期の一例であった。
官渡戦を前に、陽安郡を落ち着かせた趙儼の判断
官渡の戦いを前に、袁紹は兵を挙げて南進し、豫州各地に使者を送りまくった。
その結果、多くの郡が袁紹に従ったが、陽安郡だけは空気を読まずに従わなかった。
情勢が不安定になる中、都尉の李通は戸籍を調べ、綿や絹を徴発して中央へ送ろうとした。
この動きを知った趙儼は、李通に直接会って次のように述べた。
「いま、世の中は一色に染まりきっておらず、諸郡が次々と旗色を変えている。
この状況で、忠節を保っている者から余計な徴発をすれば、誰が乱を望んだのか分からなくなる。」と諭す。
李通はそれでも心配を口にする。
「いま徴発しなければ、中央からアイツらも裏切る気かと疑われるぞ。」
趙儼は、李通の懸念を受け止めたうえで、さらにこう言った。
「その心配ももっともである。
しかし、いまは軽重を考えるべきだ。
徴発を少し緩めれば、その疑いは私が必ず解消してみせよう。」
その後、趙儼は荀彧に書簡を送り、陽安郡の状況を詳しく伝えた。
山道は盗賊だらけ、民はすでに干からび、周辺の城は今にも倒れそう、それでも忠誠を捨てていないと説いた。
そして、国家として民を安心させるため、すでに徴収した綿や絹は返すべきだと進言した。
荀彧はこれを曹操に伝え、結果、公文により徴収品は民に返される。
無理を通さなかった結果、陽安郡の不安はすぐに鎮まった。
こうして陽安郡では混乱や離反が起こらず、情勢は落ち着いた。地味だが、これが本当の勝者の仕事である。
李通の内通を止めた趙儼の進言
官渡の戦いを前に、太祖曹操は北方で袁紹と対峙していたが、周囲の空気は決して楽観的ではなかった。
誰もが勝ち馬に乗りたがり、あちこちで書簡が飛び交う。
『魏略』によれば、遠近の民や官吏が裏口から袁紹に通じようとしていたという。
陽安郡では、太守の李通が趙儼とともに政務にあたっていた。
内心では袁紹にすり寄る準備を始めていたが、趙儼がこれを止めに入る。
袁紹には敗れる道理があると説き、下手に動けば自滅を招くと冷静に判断を促した。
李通は最終的に使者派遣を取りやめた。
その後、袁紹が敗走し、曹操が敵陣の文書をひっくり返したが、李通の書状は出てこなかった。
曹操はこれを察して「これは趙伯然の働きだな」と語ったと伝えられている。
なお裴松之は、『魏武紀』に記された「袁紹の書簡はすべて焼却された」との記述を引き、この逸話自体には疑問を呈している。
ただし、趙儼が情勢を見抜き、内通の動きを抑えたという点は、史料上からも確かなものである。
不和の三将に割って入った趙儼の調整力
都に入った趙儼は、司空府の掾属主簿として仕えることになった。
建安十三年(208年)、曹操が南征の準備を進めるなか、于禁は潁陰、楽進は陽翟、張遼は長社に駐屯していた。
いずれも歴戦の名将であったが、気性は荒れ模様で、顔を合わせれば火花が飛ぶ始末だった。
それぞれが別の場所に陣を構え、兵を率いていたため、連携の薄さが浮き彫りになっていた。
曹操は、この不安定な状態に楔を打つため、趙儼を三軍すべてに参与させ、軍事の要所ごとに助言させる方針をとる。
趙儼は誰も贔屓せず、事実と損得をセットで提示していく。
また、対立を煽るような言動には釘を刺し、無益な争いを避けさせた。
その結果、三人の間には徐々に理解が生まれ、軍中の空気も落ち着いていく。
時間とともに三軍は協調へと向かい、共同で行動できる体制が整った。
戦場での勝敗だけではなく、人の扱いにも趙儼の真価は現れていた。
荊州征伐後の軍事統括と関中経営
曹操が荊州を征伐した後、趙儼は章陵太守として任地に赴いた。
その後、都督護軍に転じると、于禁・張遼・張郃・朱霊・李典・路招・馮楷という七軍すべての面倒を見る羽目になる。
将ではなく地方官でありながら実態は、将軍たちのクセと衝突を調整する業務委託のようなものだった。
その後、丞相主簿を経て、扶風太守に昇進する。
ちょうどこの頃、曹操は旧・韓遂・馬超配下の兵五千余を再編し、殷署らに指揮を任せた。
趙儼は関中護軍として派遣され、これら諸軍すべてを監督する任を負った。
関中では羌族や異民族の侵入が相次ぎ、安定とは程遠い状態が続いていた。
趙儼は殷署らと出陣し、新平まで追撃して敵を撃破し、情勢をいったん沈静化させる。
さらに、屯田客の呂並が自ら将軍を名乗り、徒党を率いて陳倉を占拠する事件が起こる。
趙儼は再び殷署らとともに兵を進め、反乱を制圧した。
関中における趙儼の行動は、単なる鎮圧ではなく、秩序の立て直しを伴うものだった。
漢中救援兵の反乱と、関中兵移送をまとめた判断
漢中守を救援するため、一千二百人の兵が派遣されることになり、殷署がその護送を任された。
出発に際して兵士たちは家族と別れ、顔には不安が滲んでいた。
殷署が発った翌日、趙儼は事態の変化を懸念し、自ら斜谷口まで追って兵を見送った。
一人一人に声をかけ、殷署にも慎重を求めたが、その後、軍は四十里先で反乱を起こしてしまう。
その時点で殷署の安否は不明であり、情勢は混乱の兆しを見せていた。
趙儼のもとにいた兵は百五十人。だが多くは反乱兵と部曲が同じで、親族関係もあった。
反乱の報を聞いた彼らは動揺し、甲冑をつけて武器を握りしめ、騒然とした空気が一帯を覆った。
周囲の者は、ここで引き返すべきだと進言した。
それでも趙儼は、まず実情を直接見極めることが先だと述べた。
また、迷っている者ほど今のうちに説得すべきだとして、進軍を選んだ。
三十里進んだところで全員を集め、生死を共にする覚悟を語ると、従者たちは心を固めた。
その後、反乱を企てた八百余人を選別し、首謀者のみを処断する。
その他の者は一切咎めず、郡県から送られた兵もすべて解放した。
この寛大な処置により、人々は次々と帰順していった。
さらに趙儼は、旧来の兵を関中に残して守備にあてるべきだと密かに上申した。
曹操は劉柱に二千人を率いさせ、増援として向かわせた。
だがこの計画が漏れたことで、陣中には不安が走る。
趙儼は急ぎ全体をなだめ、「関中には温厚な新兵一千人を置き、あとは東へ送る」と宣言。
即日で名簿を精査し、一気に移送を完了させた。残された兵は各地に分配され、秩序は維持された。
さらに東方から新兵が到着すると、趙儼は再び説得を行い、一千人を移動させた。
結果として、二万余口の人員を混乱なく移送することに成功した。
ただし東晋の歴史家・孫盛は、「安心させるフリで近づいておいて、最後には強制移送とは。最初の約束はどうした」と問題視している。
樊城の戦いでの戦略判断
建安二十四年(219年)、関羽は征南将軍曹仁を樊城で包囲した。
趙儼は議郎として曹仁の軍事に参与し、平寇将軍徐晃とともに救援のため南へ進軍することとなったが、到着した時点で状況はすでに楽観できるものではなかった。
関羽の包囲は周到で、水害によって地形も荒れ、攻める側に有利な条件はほとんど残っていない。
しかも他の救援軍はまだ姿を見せず、徐晃の兵力だけで事態を打開できる見込みは薄かった。
それでも諸将は、事情よりも焦りが先に立ち、徐晃を責めて早急な救援を求めた。
この空気の中で、趙儼はあえて水を差す役を引き受けた。
ここで強行すれば、城内も救援軍も疲弊するだけで、結果は変わらないと述べ、前軍を進めて圧をかけつつ、矢に書簡を結んで曹仁と連絡を取る策を示す。
北方の援軍は十日ほどで到着する見通しであり、それまで持ちこたえれば内外から挟撃できると説明し、「遅れた責任はすべて私が負う」と言い切って、場を収めた。
諸将は渋々ながらこの案に従い、地道を掘り、矢を使って曹仁との連絡を確保した。
やがて北方の援軍が到着し、軍勢を合わせて大戦となった結果、関羽の軍は退却する。
ただし関羽はなお船団で沔水を押さえ、襄陽との連絡は断たれたままであり、完全な解決とは言い難かった。
その直後、孫権が関羽の輜重部隊を奇襲し、これを知った関羽は急ぎ南へ引き返す。
このとき、曹仁の陣営では「今が最大の好機だ」として追撃を主張する声が高まった。
だが趙儼は、孫権が関羽の背後を衝いたのは、彼と魏が手を組むのを恐れたからであり、ここで魏が追撃に動けば、次に孫権の矛先がこちらへ向くと警告した。
関羽は呉への牽制として残す方が得策であるという進言を受け、曹仁は軍を緩めた。
後に曹操もまた追撃を戒める命を出したが、その判断は趙儼の見立てと一致していた。
樊城の戦いにおける趙儼の立ち位置は、単なる現場の指揮官ではなかった。
彼は、魏・呉・蜀が複雑に絡み合う国際的な戦略環境を読み切り、その中で何を守るべきかを冷静に見極めていた。
晩年の官歴と重ねた要職
文帝曹丕が王位に就くと、趙儼は侍中に任じられた。
間もなく駙馬都尉となり、河東太守を兼ね、さらには典農中郎将を領する。
黄初三年(222年)には関内侯に封ぜられ、中央と地方の双方でその名が刻まれた。
この頃、孫権が辺境を侵すと、征東大将軍の曹休が五州の軍を率いて備えることとなり、趙儼は軍師として呼び出された。
孫権軍はやがて退却し、軍も帰還。趙儼は宜土亭侯に封ぜられたうえ、度支中郎将へと転じ、さらに尚書へと昇った。
黄初六年(225年)、呉征伐にあたり広陵まで出陣した曹丕に従軍し、そのまま現地に留まって征東軍師の職に就いた。
太和元年(227年)、曹叡の即位により、都郷侯に進封され、六百戸の食邑を与えられる。
荊州諸軍事を監督する任が与えられ、節まで仮授されたが、病を理由に現地には赴けず、再び尚書に戻り豫州の諸軍を監督した。
さらに大司馬軍師へと転じ、のちには朝廷で大司農を務めている。
景初三年(239年)、曹芳の即位にともない、今度は雍州・涼州の諸軍事を監督し、節を再度仮授された。
このあたりから肩書の種類が一段と増えはじめ、征蜀将軍から征西将軍、さらに雍涼都督へと転任が続く。
そして正始四年(243年)、老病を理由に帰還を願い出ると、驃騎将軍として召される。
最終的には、正始六年二月丙子(245年4月9日)に司空へと昇進し、同年六月に死去。享年七十五。諡は穆侯。
子の趙亭がその爵位を継いだ。
これだけ異なる官職を短期間に次々と歴任した人物となると、よほど万能か、あるいは制度が雑だったかのどちらかだが、少なくとも趙儼に関して言えば、それが信任によるものであったことは、長年にわたって政権中枢にとどまり続けたという一点で証明されている。
史書に見える趙儼の人物評価
趙儼は、同郡出身の辛毗・陳羣・杜襲と並び称され、当時の人々からは「辛・陳・杜・趙」と呼ばれていた。
これは一時の流行名士といった類の扱いではなく、長年にわたる言動や行政の積み重ねによって、官僚としての安定感を評価された結果であった。
『三国志』の陳寿は評で、趙儼を「意志の強さと判断力を兼ね備えた人物」としながら、同時に「節度を忘れず、強引に振る舞わない点」が印象的だったと述べている。
軍事でも政務でも、趙儼は我を通すのではなく、まず人心を読み、次に全体を見てから動いた。
そのため派手な武功は残さなかったが、混乱期においては「揉め事を起こさず、仕事を進める人」の価値が非常に高かったことを、彼の官歴が証明している。
『魏略』には、征蜀将軍に任じられた際の一幕が伝えられている。
従来、四征将軍には官の厨房や財物の帳簿が付属し、転任の際にそれを利用するのが通例であった。
しかし趙儼はそれを用いず、自ら車に乗って赴任し、霸上に到着した際、常用の薬が手元にないことに気づいた。
その際、「薬はどこに置いたのだったか」と口にしただけであったが、その話が雍州に伝わり、薬材が箱で数箱も送られてきた。
これを見た趙儼は笑って言った。
「人の言葉というものは、誠に当てにならぬ。ただ薬の所在を確かめただけなのに、どうしてこのようなことになるのか。」
そう言って、これを受け取らなかった。
また趙儼は、張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃といった「五子良将」すべてと戦場を共にした、ただ一人の文官でもある。
軍を指揮する立場ではなかったが、戦場での判断や調整に深く関与し、諸将の間を取り持つ役を担っていた。
最後まで主役として前に出ることはなかったが、常に現場と中枢の双方に関わり続けた点に、趙儼の立ち位置がある。
官僚制という仕組みの中で、判断と調整を積み重ね、三国が並び立つ不安定な時代において、政権の均衡を実務面から支えた人物であった。
参考文献
- 三國志 : 魏書二十三 : 趙儼傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書十八二 : 李通傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/卷065 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷067 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷068 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:趙儼 – Wikipedia
趙儼のFAQ
趙儼の字(あざな)は?
字は伯然(はくぜん)です。
趙儼はどんな人物?
決断力がありながらも節度を守り、民心と軍の安定を重視する官僚でした。
趙儼の最後はどうなった?
司空に昇進した後、正始六年(245年)に没し、諡を穆侯とされました。
趙儼は誰に仕えた?
主に曹操、曹丕、曹叡、曹芳の曹魏政権に仕えました。
趙儼にまつわるエピソードは?
官渡戦前に陽安郡の物資徴発を止め、民心を安定させた判断が知られています。



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