1分でわかる忙しい人のための張儼の紹介
張儼(ちょうげん)、字は子節(しせつ)、出身は呉郡呉県、生没年(?~266年)
三国時代の呉に仕えた官僚であり、文名と弁舌で知られた人物である。若年の頃から名声が高く、同世代の名士と交友を結び、朱拠(朱據)にもその才能を認められた。
孫権政権下では顕要な職に就き、《請立太子師傅表》を上奏するなど政治に意見した。博識を評価されて大鴻臚となり、宝鼎元年(266年)には晋に派遣され司馬昭を弔問した。
洛陽では賈充・裴秀・荀勖らの難問に屈せず、羊祜・何楨らと親交を結ぶなど、その弁才は高く評価された。帰途に病没するが、《默記》三巻を著し、後世に影響を残した。特に《後出師表》をめぐる真偽論争の渦中にあり、文学的評価も高い。息子の張勃は《呉録》を著し、張翰は東晋の名士として知られ、父の文名を継承した。
張儼を徹底解説!呉の才士が晋国で示した弁舌、外交使節としての活躍と《後出師表》と子孫への継承
若き日の名声と友人たち
張儼は、若かりし頃からすでに評判を集める男であった。朱桓の子・朱異、張惇の子・張純と親交を結び、三人はまるで「才気クラブ」のように共に歩みを合わせることが多かった。
ある日、その三人は驃騎将軍・朱拠のもとを訪れ、彼はニヤリと笑ってこう告げた。
「この老骨の耳にも、君たちの才名は届いておる。即興で詩を作って披露してみよ。
作り終えてから席に座るがよい。」
まず張儼は犬を題材に選び、こう詠んだ。
「守れば威厳があり、出れば獲物を得る。韓盧や宋鵲の名は書に記され、竹帛に残る」
張純は敷物の席を題とし、詠んだ。
「冬には席を敷き、夏には簟(たかむしろ)を施す。揖譲して座るのは、君子にふさわしい」
朱異は弩(いしゆみ)を選び、こう詠んだ。
「南嶽の木材、鍾山の銅を用い、機に応じて命中し、高い城壁の隼をも射落とす」
三人はそれぞれ目にした物に即興で詩を与え、淀みなく読み上げてから席についた。その完成度に朱據は大いに満足し、「名声に偽りなし」と、彼らの将来を確信したという。この日の出来事は、張儼がまだ名声を確立する前から、「目を引く存在」であったことを如実に示している。
孫権政権での仕官
張儼は呉に仕えてからというもの、ただの文官では終わらなかった。机上の論理にとどまらず、国家の将来を考えた提言を行った。その代表作が《請立太子師傅表》
孫権に対して「皇太子にはふさわしい師傅を置き、教育と徳の模範を正しく導くべし」と訴えたのである。字面だけを見れば儒者らしい建言だが、これは単なる理念の話ではなかった。孫権の晩年、後継者問題は燻りに燻っていた。張儼のこの一奏は、呉の後継体制を安定させるための政治的な意味をもっていた。
晋国への使節と洛陽での活躍
張儼はその博識で知られ、ついには大鴻臚に任じられた。宝鼎元年(266年、晋の泰始二年)、彼は五官中郎将の丁忠と共に晋に送り出される。司馬昭の弔問という重責を担ったこの使節は、呉の威信を背負ったまま都・洛陽に乗り込んだ。
だが、待ち構えていたのは、車騎将軍の賈充、尚書令の裴秀、侍中の荀勖。彼らは「お前なんぞ簡単に論破してやろう」とばかりに、次々と難問を突きつけた。ここで張儼が言葉に詰まれば、それは即ち呉の面子を丸つぶれにする危機だった。
しかし張儼は怯まない。難問が投げられれば、まるで水を吸った筆がすらすらと走るように答えを返す。賈充らが意地悪く眉をしかめれば、張儼は涼しい顔で切り返す。結局、誰一人として彼を屈服させることはできなかった。洛陽の廷臣たちは「呉にもこのような士人がいるのか」と舌を巻いた。
その姿を見ていたのが、尚書僕射の羊祜と尚書の何楨である。彼らは張儼の才だけでなく人柄にも惹かれ、ただの外交相手ではなく、真の友として迎え入れた。後に「結縞帯の好」と呼ばれるほど、彼らの友情は深いものとなった。
ここで注目すべきは、張儼が単に呉の代表として恥をかかなかっただけでなく、むしろ呉の名を高めたことだった。弁舌と学識が剣よりも鋭く光る、その証を残したのである。
帰途での死と文学的遺産
張儼は晋での使節を終え、呉へ戻る途上で病に倒れた。宝鼎元年(266年、晋の泰始二年)、武昌に帰還する途中で病死する。。その死は呉にとって大きな損失であり、洛陽での弁舌によって高められた名声は、帰国を果たす前に途絶えることとなった。
張儼はまた、文学的遺産を後世に残した。彼の著作《默記》は三巻に及び、その中には諸葛亮の《後出師表》が収められていた。このため、《後出師表》は果たして諸葛亮の真作なのか、あるいは張儼が記録したものなのかをめぐる論争が古来より続いている。彼の学識は単に弁舌の才だけでなく、文献整理と記録にも及んでいたのである。
さらに、張儼の子どもたちも父の学統を継承した。長子の張勃は《呉録》を著し、父である張儼の伝を記録した。これは子が父の伝を記した先例として、歴代史書の中でも特筆される出来事である。
剣が歴史を斬り裂くとき、彼は言でそれを記すことを選んだ。
旅の果てにたどり着けずして、名声は空に還った。だがその声は、風に乗って今も残る。
参考文献
- 参考URL:張儼 – Wikipedia
- 三國志 : 呉書三 : 孫皓伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十一 : 朱桓伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 藝文類聚 : 巻一十六 : 儲宮部 : 儲宮 – 中國哲學書電子化計劃
張儼のFAQ
張儼の字(あざな)は?
張儼の字は子節(しせつ)です。
張儼はどんな人物?
張儼は若くして名声を得、弁舌と博識で知られた人物です。洛陽では晋の重臣たちを言論で圧倒し、学識をもって尊敬されました。
張儼の最後はどうなった?
宝鼎元年(266年)、晋に使節として赴いた帰途、武昌に戻る途中で病死しました。
張儼は誰に仕えた?
張儼は呉に仕え、孫権の時代から仕官し、孫晧の時代には大鴻臚に任命されました。
張儼にまつわるエピソードは?
洛陽で賈充・裴秀・荀勖らが難問を仕掛けましたが、張儼は一切屈せず、逆に羊祜や何楨から友情を求められたという逸話があります。
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