1分でわかる忙しい人のための朱桓の紹介
朱桓(しゅかん)、字は休穆(きゅうぼく)、出身は呉郡呉県、生没年(177~238年)
若くして孫権配下に加わり、濡須や石亭での魏軍との激戦で名を馳せた東呉の猛将。
兵力劣勢でも巧みな布陣で曹仁を退け、石亭では曹休を大破するなど、戦場での勝負強さが際立つ。
一方で疫病下の民へ薬と食料を配るなど、官僚としても人望厚く、数万人の将兵の家族を覚えていたという記憶力も伝説的。
豪胆でプライド高め、なのに財産には執着なし。死後は家に一文無し、なのに皆に惜しまれた稀有な存在。
朱桓を徹底解説!濡須・石亭の連勝と、誇り高き猛将の実像
朱桓の出世と初期の武功:山賊討伐と新城亭侯の誕生
孫権の配下になったのは早く、まずは餘姚の県長として地味にスタート。
だが似合わなかった。田畑より軍馬が好きな性分で、すぐに蕩寇校尉として武装転職。
兵を二千あずかると、すぐさま呉郡と会稽でスカウト活動を開始し、たった一年で一万人超をかき集めた。
採用力というより、もはや吸引力である。
ちょうどその頃、丹陽と鄱陽で山賊が暴れ回っていた。
城を襲い、役人を殺し、拠点まで構えて本気の反乱。
朱桓は諸将を率いてこれを制圧、一人残らず鎮めてみせた。
これで裨将軍、新城亭侯に昇進。文句なしの出世街道、一直線である。
濡須の戦いで曹仁を撃退:半数の兵力で魅せた軍才
黄武元年(223年)、朱桓は周泰の後任として濡須の守備を任された。
だが赴任早々、魏の大司馬・曹仁が数万の軍を引き連れてやってくる。
相手は本気、こちらは一万の偏師。計算が合わない。
しかも曹仁は羨渓に進軍するよう見せかけ、朱桓も五千を割いてそちらへ向ける。
その直後、狙いは濡須本体だと判明。戻す間もなく本隊が到着。
残った兵は五千。さすがに終わったかと思われたが、朱桓は動じなかった。
「勝敗は将の腕で決まる。曹仁と俺、どっちがマシか比べてみろ」と檄を飛ばし、
旗を伏せ、太鼓を止め、あえて“油断中”を演出。
それに乗った曹仁は、息子の曹泰らを率いて城を襲わせたが、朱桓は火計を用いて迎え撃ち、見事に撃退。
別働隊も常雕・諸葛虔を斬り、王双を生け捕りにするという完封劇。
濡須の水で魏兵が千人単位で溺れる中、曹仁はすごすご撤退。
朱桓はこの戦いで一躍名を馳せ、嘉興侯・奮武将軍・彭城相の三役を手にした。
石亭の戦いでの決断と勝利:曹休を討ち取った三方面作戦
黄武七年(228年)、朱桓は曹魏への“釣り作戦”に参加する。
仕掛け人は鄱陽太守・周魴。嘘の降伏で大司馬・曹休を誘き寄せる見事な撒き餌だ。
まんまと乗ってきた曹休、兵十万。迎え撃つ呉は三方面作戦。
陸遜が総指揮、朱桓と全琮が各三万を率いて合流する。
朱桓は寿春を奪う奇襲作戦を提案。
「夾石と挂居を押さえりゃ、曹休は袋の鼠だろ?」
だが陸遜は首を横に振る。結果、提案はボツ。
とはいえ、本戦は三軍の同時攻撃で大成功。
一万人を討ち取り、牛馬車と軍資もまるっと押収。
朱桓にとっては「奇策不採用でも勝てる」ことを証明した一戦だった。
青州牧への昇進と将軍としての地位確立
黄龍元年(229年)、朱桓はさらなる昇進を果たす。
前将軍に任ぜられ、青州牧も兼任、そして「節」まで持たされた。
この「節」は国家からの全権委任の証で、要するに「もう君に任せた」状態。
武官としての評価は頂点に達し、名実ともに呉の柱となった。
撤退戦における威名の力:敵軍すら手を出さなかった朱桓
嘉禾六年(237年)、呉は廬江攻略に動く。
内部協力者・呂習の密約に期待して全琮が出陣、朱桓も同行。
だが密約は漏れていた。門は開かず、遠征は空振り。
魏の李膺が軍を率いて渡河地点で待ち構えていた。
退却する軍は敵の追撃に晒されるはずだったが、殿を務めるのが朱桓と知った瞬間、動かない。動かないどころか、一歩も出てこない。
結局、呉軍は無傷で撤退。戦わずして敵を退けたその威名、伊達ではなかった。
朱桓の人柄と統率術:士民を思い、部下を覚える名将の姿
朱桓は武官である前に、妙に面倒見のいい男だった。
疫病が流行った餘姚では、役人に薬と食料を持たせて民家に直送。
しかも部下にも手厚く、俸禄や財産を分け合い、家族も面倒を見るという義理堅さ。
そして特筆すべきはその記憶力。
配下の妻子――数千人規模の名前と顔を、全員覚えていたという。
名簿じゃない。記憶だ。まるで人間データベース。
この人たらしっぷりが、朱桓軍を一枚岩にしていたのは間違いない。
朱桓の暴発と晩年:自らの激しさが生んだ悲劇
だが、そんな朱桓にも大きな欠点があった。
「人の下につくのが我慢ならん」という負けず嫌いが、時に暴走する。
237年の廬江遠征、全琮が将を分けて各地を攻めようとした際、その方針が胡綜の進言だと聞いた朱桓が、ブチ切れる。胡綜を呼びつけようとしたが、部下に止められる。
その報告者をその場で斬殺。さらに諫めた佐軍までも斬る。
最終的には「俺は狂った」と言い張り、建業に戻って“療養”することで収拾。
孫権が罪を問わなかったのは、ひとえに朱桓の実績と存在感あっての話だった。
朱桓の死とその後:勇烈なる将の最期と評価
赤烏元年(238年)、朱桓は六十二歳で没した。
病床の彼に、かつてのような烈しさはなかったが、兵も民も彼を慕い続けた。
死後、家には財が残らず、葬儀費用を心配した孫権が五千斛の塩を贈ったという。
その姿は、最後まで「人のために動き、利を自ら取らず」の将であった。
子の朱異が爵位を継ぎ、家名は存続した。
陳寿は朱桓を「勇烈で聞こえた」と評し、一度会えば数十年忘れぬ記憶力や、
義理を重んじる気質も称賛している。
その熱さが災いとなる場面もあったが、それ以上に多くの人を動かし、守り、信じられた将であったことは間違いない。
参考文献
- 参考URL:朱桓 – Wikipedia
- 三國志・吳書・朱桓傳
- 資治通鑑
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