諸葛靚:父・諸葛誕への孝と節義を貫き、晋を拒んだ生涯【すぐわかる要約付き】

一般武官

1分でわかる忙しい人のための諸葛靚の紹介

諸葛靚(しょかつせい)、字は仲思(ちゅうし)、出身は琅邪陽都、生没年(?~280年以降)

魏の征東大将軍・諸葛誕の子であり、名門の家に生まれた。父が寿春で司馬昭に叛いた際、呉へ人質として派遣され、そのまま呉に留まった。
呉においては右将軍として孫皓政権を支え、施但の乱を鎮圧するなど功績を上げた。
宝鼎三年(268年)には合肥攻撃に参加している。
天紀三年(279年)、晋が呉を攻めた際、丞相張悌の指揮下で出陣。降伏を疑う進言が容れられず、呉軍は大敗する。敗走中、張悌を救おうとしたが、彼は国に殉じた。
呉滅亡後、晋に召されるも仕官を拒否し、父の仇である晋室を恨んで洛陽に背を向けて生涯を終えた。

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諸葛靚の生涯を徹底解説!寿春の乱・施但の乱鎮圧・張悌との最期の別れ

諸葛靚、名門に生まれ父・諸葛誕の乱で呉へ渡る

諸葛靚は魏の征東大将軍・諸葛誕の末子として生まれた。
生まれは琅邪陽都で、諸葛亮や諸葛瑾などを遠い親族に持ち、エリートの家柄である。

時の魏では司馬昭が実権を握っており、諸葛誕の知人だった鄧颺・夏侯玄といった名前持ちの男たちが、次々に処刑されていた。
王淩毌丘倹の反乱もあっさり鎮圧され、一族まるごと粛清済みであった。
そんな中で諸葛誕も「次は俺じゃないか」と不安に駆られ、寿春にて私兵を養いはじめた。

そして甘露二年(257年)、ついに朝廷から「司空に昇進するから都に来い」という詔が届く。
この「出世の詔」は『大出世のお知らせ』であるが、諸葛誕には来たら殺すとしか見えなかったようで、恐怖が勝り、とうとう反旗を翻した。

その際、援軍を求めるため呉綱に命じ、自らの息子・諸葛靚を同行させて呉へ送る。
諸葛靚にとっては突然の国外出張で、しかもほぼ片道切符である。
呉にとっては「貸しを作り、攻め込むチャンス」である。二人は援助の代償として人質扱いとなり、そのまま滞在が確定する。

翌年、司馬昭の軍が寿春を包囲。諸葛誕は抗戦むなしく討たれ、三族全員が誅滅されるという凄惨な最期を遂げる。
だが、呉にいた靚だけは奇跡的に命をつなぎ、父も家も失った彼はその地に骨を埋める覚悟で仕官した。
右将軍となり、異国にて新たな人生を歩むことになる。 名門の子にして、国を追われた亡命エリートの誕生であった。

呉将としての奮戦と施但の乱鎮圧

呉甘露元年(265年)、孫皓は都を武昌へ移し、建業には御史大夫・丁固と右将軍・諸葛靚を残して守備にあたらせた。
政権末期の遷都がどれほど機能するか、不安がなかったわけではない。

案の定というべきか、その翌年には山賊の施但が蜂起する。
永安侯・孫謙を旗印に担ぎ上げたその勢力は、最初こそ小規模ながら、みるみる膨れ上がり万を超える軍勢に変貌する。
建業を目指して進軍する様は、まるで末期政権の虚を突くような進軍だった。

施但軍が牛屯に迫ると、諸葛靚と丁固は出撃を開始して迎え撃ち、施但の軍勢を壊滅させる。 擁立された孫謙も捕らえられて自害した。

続く宝鼎三年(268年)、諸葛靚は右大司馬・丁奉とともに合肥を攻撃する。
だがこちらの遠征では、特筆すべき戦果もなく終わっている。

晋の南征と張悌との最期の戦い

天紀三年(279年)の冬、ついに晋の武帝・司馬炎が動いた。
王渾杜預王濬らがそれぞれ大軍を率い、長江沿いに南下を開始する。
まるで複数の川が一斉に流れ出すように、呉の国境各地は次々と陥落し、戦局は一気に晋へ傾いた。呉に残された選択肢は、もはや「どう倒れるか」だけだった。

天紀四年(280年)、呉の丞相・張悌は最後の望みをかけて、防衛戦に出る決断を下す。
右将軍・諸葛靚、丹陽太守・沈瑩、護軍・孫震を率い、長江を渡り、王渾の軍が迫る牛渚方面で迎撃態勢を整えた。
もはや守りではなく攻めに出る、その決断には勇気というよりも、背水の陣に近い焦燥があった。

その最中、晋軍の援軍が見込めない城陽都尉・張喬が降伏を申し出る。
これを聞いた諸葛靚は「張喬は本心から降ったわけではない。生かせば、後の災いとなる」と進言した。
だが、張悌は「今は人を信じ、大義で動くべき時だ」と却下する。

やがて呉軍は晋の揚州刺史・周浚の軍と対陣する。先鋒として沈瑩が突撃するが、敗れて後退。
これを合図にしたかのように晋軍が一斉に総攻撃をしかけ、呉軍は瞬く間に総崩れとなる。
さらには、先に降った張喬の軍が背後から襲撃し、呉軍は完全に混乱。
張悌の陣も崩壊し、諸葛靚はわずか五、六百人を率いて敗走するのが精いっぱいだった。

この戦いで呉の主力は壊滅し、建業を守る最後の防衛線は音もなく崩れ去った。
戦術の差ではなく、時代そのものが終わったかのような崩壊である。

張悌との別れと呉の滅亡

晋軍との戦いに敗れた諸葛靚は、わずか数百人を率いて敗走する途中、丞相・張悌の陣にたどり着く。その場に残っていた張悌は、なお戦場を離れようとせず、まるで己の居場所はここしかないとでもいうようだった。

諸葛靚は思わず声をかける。
「巨先(張悌)よ、天下の興亡には天命がある。なぜ今、命を捨てようとするのか」
戦局はすでに決している。戦う意味など、もはやどこにもなかった。

それでも張悌は目に涙を浮かべて応える。
「仲思(諸葛靚)よ、今日は私の死ぬ日だ。幼い頃、私はお前の家の丞相(明確ではないが諸葛恪の事)に取り立てられた。その恩を忘れたことはない。今こそ、命をもって社稷に報いる時なのだ。もう、引きとめてくれるな。」

諸葛靚はその手を放し、背を向ける。百歩も進まぬうちに、背後で張悌が敵の刃にかかるのを見たという。それは「武将の最期」などという美談ではない。ただ、一人の人間が、守るべきものを失い、命を燃やし尽くした証だった。

その後、晋の大軍が建業に迫り、孫皓はついに降伏し、百年続いた江東の歴史は終わりを迎えた。

諸葛靚の晩年

呉の滅亡後、諸葛靚は姿をくらませた。
だが逃げるには血筋が立派すぎた。晋の武帝・司馬炎とは旧知の間柄、さらに彼の姉は琅邪王・司馬伷の妃。
つまり、どれだけ隠れても「身内の地図」に載っている男だった。

やがて武帝自らが諸葛靚の屋敷を訪ねると、会見を拒んで、廁(かわや)へ駆け込みむ。
結局引きずり出されて対面すると、武帝は苦笑しつつ言った。
「まさか今日、お前とまた会えるとはな」
それに対し、諸葛靚は涙を流しながら「私は父の仇の前に、顔を黒く塗ってでも会うべきでした。いま素顔でお目にかかるなどできません」と答える。
礼儀ではなく、恥辱と節義が混ざった言葉だった。

武帝はその態度に心を動かされ、彼を侍中に任じようとするが、諸葛靚は固辞した。
故郷に帰ると、それ以後は終生、司馬氏のいる朝廷の方角に背を向けて座ったという。

参考文献

諸葛靚のFAQ

諸葛靚の字(あざな)は?

字は仲思(ちゅうし)です。

諸葛靚はどんな人物?

正直で節義を重んじる人物で、父の仇である晋に仕えず、忠と孝を貫いた人です。

諸葛靚の最後はどうなった?

呉滅亡後に晋へ降りましたが、召されても仕官を拒み、洛陽に背を向けて暮らしました。

諸葛靚は誰に仕えた?

呉の皇帝・孫皓に仕え、右将軍として施但の乱などに出陣しました。

諸葛靚にまつわるエピソードは?

晋軍侵攻の際、丞相張悌を逃がそうとしたが、彼が殉死を選び涙して見送ったという逸話が伝わります。

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