1分でわかる忙しい人のための歩協の紹介
歩協(ほきょう)、出身は臨淮郡淮陰県、生没年(?~?
三国時代の呉に仕えた将軍であり、丞相・歩騭(ほしつ)の長子である。
父の死後、その爵位である臨湘侯を継ぎ、軍を率いて撫軍将軍に任命された。
呉景帝の時代、魏が蜀を滅ぼした翌年、歩協は陸抗・留平・盛曼らと共に巴東へ出征し、羅憲を攻撃した。
しかし六か月に及ぶ包囲戦の末、魏の援軍が到着したため、やむなく撤退した。
その後、歩協の死後に一族は西陵の乱に巻き込まれ、歩氏はほぼ滅亡したが、子の歩璿のみが生き残り祀を継いだ。
歩協を徹底解説!父の軍を継ぎ、巴東を攻め、西陵の乱に散った呉の名門・歩氏の軌跡
歩協、父・歩隲の軍を継ぎ呉の将軍となる
呉の丞相・歩隲(ほしつ)の長子である。 赤烏十年(247年)、名将・歩隲が世を去った。偉大な父の臨湘侯の爵位を継ぎ、父の軍をそのまま引き受け、撫軍将軍に任ぜられた。
世間はそれを家の誉れと呼んだが、実際には父の影を背負う任務でもあった。 こうして歩協は、血統と責任を同時に引き継ぎ、呉の軍を率いる者となった。
蜀滅亡後の永安の羅憲を攻めるも陥落せず
永安七年(264年)、魏が蜀を滅ぼして間もなく、呉は旧蜀領の奪還を狙って軍を起こした。 歩協は鎮軍将軍・陸抗、征西将軍・留平、建平太守・盛曼らとともに三万の軍を率い、巴東の永安を攻めた。 守将は羅憲であった。
歩協らは城を囲み、六か月にわたって攻め続けた。城の矢は尽き、食糧はなくなり、兵はボロボロ。 だが、羅憲の守りは崩れず、城は落ちない。 やがて魏の将・胡烈が援軍を率いて現れ、逆に呉の要地・西陵を襲う。 背後を突かれる形となった陸抗は、やむなく包囲を解き、退却を余儀なくされた。 半年の戦いは、功もなく、ただ歴史の片隅に「落とせなかった城」として刻まれた。
歩協の死後の一族の悲劇:西陵の乱と歩氏の断絶
歩協の死後、その家系は波乱に満ちた運命をたどった。
歩協には二人の子があり、長子の歩璣と次子の歩璿である。
父の死後、歩璣が臨湘侯を継ぎ、江陵を中心に軍を統べる立場となった。
彼は監江陵諸軍事・左将軍に任じられ、散騎常侍を加えられ、廬陵太守を兼任している。
一方で、歩協の弟にあたる歩闡は、西陵を拠点としていたが、やがて朝命に応じず晋に降伏した。
この際、歩璿は人質として洛陽へ送られている。
歩闡の降伏後、呉は陸抗を派遣して西陵を攻撃した。
この戦いで歩闡と歩璣はいずれも戦死し、歩氏一族はほぼ滅亡した。
最終的に、生き残ったのは歩璿のみであり、彼が家の祀を継いだ。
名家の断絶とは、戦で死ぬことではなく、物語を語る者がいなくなることを意味する。 歩氏が最後に遺したのは、名将の血筋でも忠義の軍でもない。 「失敗の記録」をただ一人で背負わされた、歩璿という証人だった。
参考文献
- 三國志 : 呉書七 : 步隲傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書三 : 孫休傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十三 : 陸遜傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻078 – 维基文库,自由的图书馆
- 建康實錄 : 巻第三校勘記 – 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:歩協 – Wikipedia
歩協のFAQ
歩協の字(あざな)は?
史料には歩協の字は記されていません。
歩協はどんな人物?
父・歩騭の遺志を継ぎ、呉に忠実に仕えた将軍です。戦場では誠実で節度を守り、無謀な行動を避けた人物とされています。
歩協の最後はどうなった?
歩協は巴東の戦い後の記録がなく、赤烏十年(247年)以降に没したと考えられます。詳細な没年や死因は史料に記されていません。
歩協は誰に仕えた?
呉の皇帝・孫権、のちに孫亮・孫休の時代に仕えました。
歩協にまつわるエピソードは?
永安七年(264年)、歩協は陸抗・留平・盛曼らとともに魏の羅憲を攻めましたが、六か月の包囲にも関わらず攻め落とせませんでした。この戦いは呉の西征として知られています。
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