【1分でわかる】徐盛:忠義の涙で呉を守り、疑城の策で魏を退けた智勇【徹底解説】

徐盛

1分でわかる忙しい人のための徐盛の紹介

徐盛(じょせい)、字は文嚮(ぶんきょう)、出身は徐州琅邪郡莒県、生没年(177年~226年頃)

徐盛は三国時代に呉に仕えた将軍であり、江東十二虎臣の一人として数えられる。
彼は少数の兵で大軍を撃退する戦いぶりで知られ、特に濡須や横江での防衛戦では勇敢な突撃によって曹操軍を退けた。 忠義に厚く、孫権が魏に臣従する姿を見て涙を流した逸話も残る。
また、黄武三年(224年)には「疑城の策」を用いて曹丕の大軍を退け、智勇兼備の将として評価を高めた。 黄武年間頃病没し、子の徐楷が爵位を継いだ。

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徐盛を徹底解説!呉を守り抜いた忠勇の武将と曹魏撃退の智略

少数で敵を破る若き武勇

建安五年(200年)、若き日の徐盛は孫権によって別部司馬に任命され、兵五百を与えられて柴桑へ駐屯した。目的は、江夏太守・黄祖軍への備えであった。
その後、黄祖の子・黄射が数千の兵を率いて襲来する。対する徐盛の手元には、わずか二百人足らずだが、城門を開き迎撃にて出て突撃して黄射軍を打ち破り、千余の敵兵を斬り伏せる。
これ以降、黄射は攻めてくることはなかった。
孫権はこの快挙を称賛し、徐盛を校尉・蕪湖令へと昇進させた。

だが、その後にはやや微妙な一幕も。
蒋欽が宣城から遠征していた折、徐盛はその部下を捕え斬首するよう上奏した。
孫権は遠征中の蒋欽に配慮し、処分を許可しなかった。この件で徐盛は蒋欽の怒りを買ったのではと恐れたという。

とはいえ、徐盛の武勇はその後も揺るがず。
臨城・南阿山の盗賊討伐でも功を挙げ、中郎将に昇進。指揮官として着実に地位を固めていった。

第二次合肥の戦いの敗北

建安二十年(215年)、孫権は再び合肥を攻め、魏軍との大規模な戦に臨んだ。
だが、この戦で呉軍は想定外の一撃を食らうことになる。

張遼が八百の精鋭を率いて突如城門を開き、呉軍の陣に突撃してくる。
奇襲を受けた呉軍は大混乱に陥り、徐盛もその矢面に立たされ負傷し、共に戦った陳武は討ち死にした。さらに追い打ちをかけるように、徐盛の部下が軍の象徴である「牙旗」を失いかけるという失態まで発生する。

士気崩壊の危機を救ったのが、後方から駆けつけた賀斉であった。

賀斉は迅速に牙旗を拾い上げ、陣中に戻すことで、軍の面目を守った。
徐盛にとっては屈辱の戦となったが、合肥で刻まれた傷跡は、後の彼をより強くする礎となっていく。

濡須での防衛と勇猛果敢な戦い

建安二十二年(217年)、曹操が濡須口へ大軍を差し向けた。これに対抗すべく、孫権は周泰を督に任じ、徐盛・朱然をその配下に就けた。
しかし、将としての誇り高い二人にとって、出自の低い周泰の指揮下に入るのは面白くなかった。
これに対して孫権は実に鮮やかな裁きを見せた。周泰の体に刻まれた無数の傷跡を一つひとつ数え、そのたびに酒を注ぐ。酒の杯が進むにつれ、諸将は言葉を失い、最後には「これほどの功臣に従わぬわけにはいかぬ」と納得した。

それよりも裸で酩酊状態の周泰に同情したのかもしれない。

間もなく魏軍は横江方面へ進軍。暴風が吹き荒れ、呉軍の船団は敵岸へと流される。
諸将は進退を迷い、動けずにいた。だが、徐盛だけはためらわなかった。単騎、敵陣に突入し、混乱に乗じて魏軍を叩いた。
敵は大いに動揺し、やがて潰走。風が収まると、徐盛は落ち着いた様子で部隊を引き連れ、元の陣に戻ってきた。
これを見た孫権は、心からの賞賛を送ったという。

曹魏への屈辱と涙の忠義

黄初二年(221年)、孫権が魏に臣従し「呉王」の位を受けると、その冊封のために魏から使者・邢貞がやって来た。
都亭で迎えられた邢貞は、いかにも「冊封をしてやる側だ」と言わんばかりのあからさまな上から目線。 まるで「よくここまで出世できましたね」と言わんばかりだった。

これを見た張昭は怒りをこらえつつも、「その態度、ちょっと失礼では?」と真っ向から謝罪を求めた。全然怒りを抑えていない。
だが、それ以上に内なる怒りを燃やしたのが、徐盛だった。
彼は同僚たちに向かって声を上げる。「我らが無力だから、曹魏と蜀漢を滅ぼせぬ。だから主君が、あのような連中に頭を下げねばならぬのだ。これ以上の恥があるか!」
そう叫んだ直後、彼は目に涙を浮かべた。戦場では剛胆無比の将軍が、ここで初めて流す悔し涙である。

邢貞はその姿に一瞬たじろぎ、同行者に小声でこう漏らした。「…江東にあのような将と相が揃っているのなら、いつまでも人の下にはいまい」。
つまり、二人にびっくりした、ということだ。

この出来事の後、徐盛は建武将軍に昇進し、都亭侯に封じられる。さらに盧江太守を兼任し、臨城を食邑として賜った。
涙の忠義が、ただの感情ではなかったことを、呉もまたしっかり認めていたのである。

夷陵の戦いと功績

同年の黄初二年(221年)、劉備が呉を討たんと大軍を率いて進軍。夷陵の戦いが幕を開ける。
兵数・士気ともに劉備軍は圧倒的で、呉にとっては一大危機であった。

だが翌年の黄初三年(222年)、呉の大都督・陸遜が火攻を放ち、劉備軍を炎の渦に呑み込む。夷陵の山野はたちまち赤々と燃え上がり、勝敗の天秤は一気に呉へと傾いた。

徐盛はその好機を逃さず、全軍を率いて進軍し、劉備軍が築いた各地の屯営をことごとく攻略していく。
一度勝勢に乗れば、その動きに迷いはなく、諸将の中でも最も迅速に戦果を拡大してみせた。

洞口での防衛と蕪湖侯への封爵

黄初三年(222年)、魏の将軍・曹休が洞口へ兵を進めた。これを迎え撃つため、徐盛は呂範全琮とともに長江を渡り防衛にあたる。
ところが途中で暴風に襲われ、数千の兵を失うという思わぬ大損害を被った。

それでも徐盛は退かない。残兵を集めて陣を整え、曹休軍の前に立ちはだかった。数では劣るが、彼の存在そのものが軍の支柱となり、魏軍の進撃を食い止めたのである。
やがて賀斉が援軍を率いて到着すると、呉軍は息を吹き返すように反撃し、ついに曹休軍を撃退することに成功した。

この戦いの功績により、徐盛は安東将軍に昇進し、蕪湖侯に封じられた。
暴風と劣勢をも押し返し、呉の防衛を守り抜いた一戦として、洞口の防衛戦は彼の名をさらに高めることとなった。

疑城の策で魏軍を退ける

黄武三年(224年)、魏の皇帝・曹丕が長江を渡って呉に侵攻しようとしたとき、建業の守りを任されたのは徐盛だった。

建業一帯に囲壁を築き、籬笆と矢楼をずらりと並べ、江上には戦船を浮かべるという「疑城の策」を敢行した。見る者すべてに「ここには鉄壁の守備がある」と錯覚させる虚構の城塞である。
この奇策に諸将は「こんなの意味あるか?」と首をかしげたが、徐盛は自信満々。
そしてやってきた曹丕軍が目の前に現れたのは、果てしなく続く防衛線と膨れ上がる長江の水位であった。
やがて曹丕が広陵まで進軍し、目の前に広がる連なる城壁を見て愕然とした。長江の増水もあり、慎重な曹丕は、結局この年の渡江を断念し、軍を引き上げた。
呉は一戦も交えずして大軍の侵攻を免れ、結果的に徐盛の「疑城の策」は大成功で終わる。

「知略とは、実戦よりも前に勝敗を決することなり」この一戦で、徐盛は真に「戦わずして勝つ」名将としての名を高めた。

晩年と死去

黄武年間(224年~229年)、幾多の戦場を駆け抜けた徐盛も、病に倒れた。長きにわたり呉の国防を担い、戦功を重ねてきた名将の歩みは終わりを迎える。

その死後、爵位は子の徐楷に受け継がれた。

同時代と後世による評価

徐盛はその生涯を通じて、同僚や敵からも高い評価を受けた。
同僚である蒋欽は「忠実で勤勉、強勇で胆略に富み、万人を督する器量がある」と述べ、その人柄と武勇を兼ね備えた将として讃えている。

『三國志』の著者・陳寿は「江表の虎臣」と記し、孫氏から厚遇されたことを伝えている。さらに唐代の符生は「驍勇で権略に富み、攻めれば必ず取る、戦えば必ず勝つ」と評し、関羽や張飛の類と比肩すべき存在だとした。霍去病や鄧羌、彭越ら歴代の名将と並べて語られることからも、その評価の高さがわかる。

後世の文人も彼を忘れなかった。孫元晏は「当時の将相で最も屈辱を嫌ったのは徐盛」と詠じ、章如愚は「程普・黄蓋・甘寧・徐盛らは智勇兼備で守将の任に堪える」と位置づけた。さらに劉咸炘は「甘寧・凌統・徐盛・潘璋は孫権に重用された将」と総括している。

このように徐盛は、同時代から後世に至るまで忠義と武勇、そして智略を兼ね備えた武将として広く称えられ続けてきた。

戦場で奮い立つ姿を見た者はその勇を語り、涙を流す姿を見た者はその忠を記した。
そして後の世は彼を関羽・張飛に比す存在として、名将の系譜に連ねた。徐盛の名は、敵に恐れられ、仲間に敬われ、歴史に刻まれることで永く生き続けている。

参考文献

徐盛のFAQ

徐盛の字(あざな)は?

徐盛の字は文嚮(ぶんきょう)です。

徐盛はどんな人物?

徐盛は勇敢で忠義心が強い人物でした。特に少数の兵で大軍を退ける戦いぶりや、孫権が魏に臣従する際に涙を流した逸話が示すように、誠実で忠勤な武将でした。

徐盛の最後はどうなった?

徐盛は黄武年間(224年~229年)の間に病死しました。死後、子の徐楷が爵位を継ぎました。

徐盛は誰に仕えた?

徐盛は生涯を通じて孫権に仕え、呉の将軍として曹魏や蜀漢との戦いに従事しました。

徐盛にまつわるエピソードは?

黄武三年(224年)、曹丕が呉を攻撃しようとした際、徐盛は「疑城の策」を用いて偽の城壁や矢楼を設置しました。これにより曹丕は進攻を断念し、呉は危機を免れました。この智略は徐盛の代表的な功績とされています。

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