【1分でわかる】許褚:曹操を守り抜いた“虎痴”の忠義とその最期【徹底解説】

許褚

1分でわかる忙しい人のための許褚の紹介

許褚(きょちょ)、字は仲康(ちゅうこう)、出身は譙(現在の安徽省亳州市)、生没年(?〜230年)
後漢末から三国時代初期にかけて活躍した、曹操親衛の筆頭として知られる猛将である。
典韋の戦死後、その後釜として曹操の護衛役を任され、剛力無双の護衛隊長として歴戦を重ねた。
「虎痴」の異名を持ち、虎のような力と無垢な忠誠心をあわせ持つその姿は、友軍には安心感を、敵には恐怖を与えた。
潼関での曹操救出劇や、馬超とのにらみ合いなど、数々の名シーンを通じて「黙して語らぬ忠義の権化」として今に名を残す。

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許褚を徹底解説!虎痴と呼ばれた忠勇無双の生涯

許褚の猛き若き日々:一人で数千家を守り抜いた英雄伝説

後漢末期、中央政府はあってなきがごとし。地方では盗賊がのさばり、夜道を歩けば命が危うい時代。そんな中、譙(現在の安徽省亳州市)に一人の筋肉が立ち上がった。
彼の名は許褚、のちに“虎痴”と呼ばれる武人だが、この頃はまだ、地元の兄貴分という感じだ。
彼は親族や郷里の数千戸を率い、自前で壁壘を築いて外敵から身を守る――という、いわば“私設治安維持団体”を結成。
しかもその守備っぷりが常軌を逸していた。

ある日、賊軍何儀、黄邵、龔都などお馴染みの顔ぶれが、一万人規模の軍勢を引き連れ攻め込んでくる。
普通の人間なら「無理無理ムリムリ」と即降伏を選ぶ状況で、許褚は“石”を武器に取る。石である。弓も矢も尽きたので、斗杓くらいの大きさの石を四隅に積んで投擲開始。
その石をぶつけられた賊兵は骨が砕けて即退場。“許褚砲”とでも言いたくなる豪快さに、賊軍側もドン引き。「あそこ、マジでヤバい奴いる」となり、接近戦を回避する始末。

で、さらに伝説になるのが“牛のエピソード”だ。食糧難のため、敵に牛を渡して穀物と交換したのだが、渡したはずの牛が戻ってきた。
すると許褚、ためらうことなく牛の尻尾をつかみ、逆引き百歩。「おまえ、誰だよ」とツッコミたくなる怪力披露で、敵も「……いや、やっぱいいです」と牛を諦めて去る。
力だけで物事を解決する。話し合いも、脅しも、戦術もいらない。
この一件で、淮水・汝南・陳・梁あたりでは、“あの牛引きずるヤバいやつ”という都市伝説が浸透した。

戦国の世を生き抜くには、智謀・計略・人脈……そんな要素が必要?
いや、許褚は違った。筋肉と石と牛の尾があれば、それでいい。
物理で制す、それが初期の許褚だった。

曹操の親衛隊長へ:典韋亡き後の重責と信頼

建安三年(198年)、曹操が淮汝を制圧すると、許褚は部下を率いて投降した。
曹操は一目見て、「こいつはわしの樊噲や」と大喜び。出会って即抜擢、宿衛都尉として自らの護衛に据えた。これが縁の始まりである。
それからというもの、許褚は曹操の隣席の常連。命を狙われることの多い曹操にとって、彼の存在は“ボディガード”の枠を超えた“命の保証書”だった。

同年、張繡征伐に参加。戦闘中、最初に城壁を登り、敵首万級を斬るというパワープレイを披露。結果、校尉に昇進する。
さらに宛城の戦いで、先代護衛の典韋が壮絶に戦死。その後釜に収まったのが許褚だ。
ただの補充ではない。あれだけの忠義と武勇を誇った典韋の代役は、生半可な人物では務まらない。許褚が選ばれた時点で、すでに“それ以上”が求められていた。

建安四年(199年)、曹操が官渡に駐屯した際、反乱計画を立てた徐他らが曹操を襲おうと試みたが、許褚がいたせいで断念。
ところがその許褚が一瞬だけ離席した。敵はここぞとばかりに刃を忍ばせて帳中へ。だが許褚、その場で“悪寒”を覚え、即座に戻る。
敵はばったり出くわし、血の気が引く。彼らの顔が青ざめた次の瞬間には、もはや生者ではなかった。
これを知った曹操は、「この人、超能力あるのでは」と思ったかは不明だが、ますます信頼を深める。以後、寝ても覚めても同行の日々が始まる。

許褚の鬼神ぶり:潼関で曹操を救った一日

建安十六年(211年)、潼関の戦い。韓遂と馬超を相手に、曹操は“西方遠征”の真っ最中だった。
その途中、曹操は大軍を黄河の北岸へ渡らせ、自分は虎士百人と許褚だけを残し、南岸で殿軍を務める。
と聞けば“戦術的な選択”に思えるが、実態は“命懸けの博打”。なぜなら、馬超が一万人の兵で突撃してきたからである。

弓矢は雨のように降り注ぎ、虎士たちは必死で船へと退却。曹操も乗り込むが、船が重くて沈みかける。
ここで許褚、暴れ牛のように大活躍。攀じ登ってくる敵を次々と斬り伏せ、左手で馬鞍を盾にして曹操を守り、右手でオールを握り船を漕ぐ。
しかも途中で船頭が射殺されるというアクシデントにも動じず、自ら操船を続けて無事に渡河成功。
この日、もし許褚がいなければ、三国志の主役が魏ではなく蜀か呉になっていたかもしれない。

さらに数日後、曹操は韓遂・馬超と密会。随行を許されたのは、ただ一人、許褚のみだった。
馬超は「虎侯はどこか?」と探りを入れる。曹操が黙って許褚を指差すと、許褚は黙ってガン飛ばす。馬超、即沈黙。
何もせずに抑止力になれる男、それが“虎痴”許褚だった。
この一件が決定打となり、“虎侯”の異名が天下に轟いたのである。

歴戦の武将として:鄴城攻囲から烏桓討伐まで

建安九年(204年)、許褚は鄴城包囲戦に従軍。
戦場では突撃要員として、陣中では曹操の身辺護衛として、その存在感は絶大だった。
功績が認められ、ついに関内侯に封じられる。出自や教養ではなく、実力と忠誠での叙爵だった。

建安十二年(207年)には、烏桓討伐に参加。白狼山での戦闘では、張遼・曹純が中央突破、許褚は徐晃・于禁とともに三手に分かれ突撃。
敵陣深くまで食い込み、大軍を撃破する。もはや許褚を“警備員”などと呼べる者はいなかった。

建安二十年(215年)、張魯征伐では陽平関での戦況が不利に。夜、曹操の前軍が道を誤って敵本営に迷い込むという事態が発生する。
後方にいた辛毗や劉曄がこの事態を伝えるも、夏侯惇と許褚は最初取り合わなかった。
しかし夏侯惇が現場を確認し、ようやく曹操に報告。
すると劉曄が進言、「この機に乗じて反撃を」と。曹操がそれに従い、張魯軍は大いに打ち破られた。
ここでも許褚は前線にいて、何も言わず、ただ剣を振るっていた。

“質重少言”の真骨頂:曹仁との一幕と忠義の姿

許褚が“虎痴”と呼ばれたのは力のせい、だが“質重少言”と評されたのは人格のせいである。
その真骨頂が、ある日ぽろりと顔を出す。

荊州から曹仁がやってきた。曹操の親族で将軍、それなりに偉い。で、寝殿前でうろうろしていたら、ちょうど許褚がいた。
「おう、そこの虎痴。一杯やりながら話そうぜ」と声をかけたかは知らないが、とにかく部屋に誘った。
許褚はぴしゃりと「魏王すぐ出ます」とだけ言い残し、殿中へ。まるで飲み会を秒で断られた課長のような顔で、曹仁は凍りついた。

後日、誰かが訊いた。「あれはさすがに無礼では?」と。
許褚、さらっと答える。「彼は外を守る将、私は内を守る将。話があるなら公の場で十分。酒席は要らん」
立場と忠義、線引きがブレない。これが“寡黙な鉄壁”の真骨頂。

この話を聞いた曹操は、満足げに笑ったという。自分が寝てる間でも、忠臣はしっかり目を光らせていた。
普段は感情を見せず、黙って矢面に立つ。それが許褚だった。
だが、そんな男が──曹操の死を前に、泣いた。
声を上げることもなく、ただ静かに、だが激しく。吐血するまで悲しんだという。
言葉を持たぬ男の、最大限の弔い。それが許褚なりの忠誠の表現だった。

許褚の忠義と晩年:魏王朝での地位と死後の顕彰

曹操の死後、許褚は引き続き曹丕の護衛を任された。
黄初元年(220年)、曹丕が帝位に即くと、許褚は万歳亭侯に封じられ、武衛将軍となる。
中軍禁兵を総督する地位は、名実ともに“魏王朝の盾”だった。

許褚の部隊には、各地の剣客が多数所属し、その中から将軍にまで出世する者も数十人。
校尉・都尉に就いた者は数百人に及ぶ。単なる武勇の象徴ではなく、軍事的人材の育成者でもあった。

太和元年(227年)、曹叡が即位すると、許褚は牟郷侯に進封され、その子も関内侯に列せられる。
許褚が病没すると、諡は「壮侯」。曹叡はその忠義を惜しみ、さらに二人の子孫に爵位を追贈した。
生前だけでなく、死後もなお報われた忠臣。それが“虎痴”許褚だった。

後世に語り継がれた“虎痴”:逸話と評価のゆくえ

許褚は「虎痴」と呼ばれたが、決してただの猛者ではない。
その勇名は後代にも語り継がれ、晋の陳安は彼に憧れ、自ら字を「虎侯」と名乗った。
虎のように猛く、痴のように忠に生きた男。後世の読書人すら虜にする“怪物”だった。

『三国志』作者の陳寿は「質重少言」「漢之樊噲」と記す。
力だけの男に、そんな賛辞は向けない。忠誠と節度を兼ね備えていたからこそ、その筆が動いた。

馬超との一騎打ち未遂事件も、“虎痴”ブランドを押し上げた。
馬超が曹操を討とうとしたとき、「虎侯はどこだ」と探りを入れたのは、裏を返せば“虎痴の名が恐れられていた”証左。
そして許褚がギロリと睨んだだけで、馬超は作戦を中断。目力ひとつで戦局を変えた漢、なかなかいない。

後代の評者も彼を高く評価する。李儼は「忠勇そのもの」、張説は「古の張飛・許褚に比す」、朱邦衡は「万を斬るは彼ら先陣の力」と記す。
ただの筋肉自慢では、ここまで筆は尽くされない。
許褚とは、戦場では斬り、私室では語らず、主君に死して報いる“無言の忠誠”を体現した稀有な男である。

参考文献

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