1分でわかる忙しい人のための張華の紹介
張華(ちょうか)、字は茂先(もせん)、出身は范陽方城、生没年(232~300年)
西晋の文学家・政治家として名を馳せ、若くして才覚を認められた。『鷦鷯賦』で名声を確立し、 阮籍から王佐の才と称された。やがて武帝に仕えて滅呉の大計を強く推進し、その実現に大きく 寄与した功臣である。滅呉後は幽州で異民族を懐柔し、辺境の安定に尽力したが、同時に権力闘争 の渦中に巻き込まれる。賈充や馮紞らの中傷を受けて外へ出され、再び中央に戻るも、司馬瑋や 賈南風ら政争の荒波に翻弄された。太子廃立に反対して孤立し、やがて趙王司馬倫のクーデター で捕らえられ処刑された。非業の死を遂げたが、その博識と政治手腕は高く評価され、後に冤罪 を雪がれて名誉は回復した。
張華を徹底解説!滅呉の推進者と非業の最期
若年期と名声の確立
張華の父・張平は曹魏で漁陽太守を務めたが、張華は幼くして父を失った。家は貧しかったが学問 に励み、天文・占術・医術まで幅広く通じていた。人物鑑識に優れた劉訥が彼に会うと「張茂先は 私の理解を超える」と評し、ただの秀才ではなく不可解な奥行きを持つ人物として世に知られた。
やがて曹魏末期に世の乱れを嘆いて『鷦鷯賦』を著す。小鳥に託して政治批判を展開した作品は 当時の知識人を揺さぶり、阮籍から「王佐の才」と絶賛された。張華の名声はこの一作で天下に 響き渡ったのである。
張華の一言:司馬炎を決定づけた呉討伐
咸寧元年(275年)、蜀が滅んでからすでに十二年、魏から晋へと天下が移って十年が経っていた。 晋は兵も物資も充実していたが、呉は孫皓の暴虐で国内は疑心暗鬼に沈んでいた。
征南大将軍の羊祜は伐呉を訴えたものの、多くの臣下が「天下は疲弊し、まだ時期ではない」と反対し、羊祜の声は埋もれていった。
咸寧四年(278年)、羊祜は病に倒れ、その最期に後任へ杜預を推挙した。
翌年、益州刺史の王濬 も伐呉を主張するが、賈充をはじめとする反対派は「西に異族の脅威あり、北は辺境の守備が重く、 五穀も実らぬ中で大軍を起こせば禍を招く」と慎重論をぶち上げる。場は再び膠着し、武帝の心も 揺れていた。
そのとき張華が進み出た。 「陛下は聖明で国は富強、命令は徹底している。対する呉主は荒淫暴虐、賢人を遠ざけている。今こそ兵を興すべきだ」 その一言が武帝の迷いを吹き飛ばし、ついに呉討伐の最終決定が下されたのである。
咸寧五年(279年)、ついに伐呉が始まる。緒戦が停滞すると賈充と中書監・荀勖は責任を張華に押し付け、処刑を主張したが、張華は「必ず勝つ」と強気に主張し続けた。結果はご存じの通り、翌年に呉は滅亡。 武帝は「羊祜と共に大計を創した」として張華を広武侯に封じ、大功を認めた。
荀勖・馮紞との確執:幽州での功績と朋党の対立
呉を滅ぼして名声をほしいままにした張華だったが、それを快く思わぬ者もいた。 大族の出で皇帝の寵を頼みにする荀勖は、その栄誉を妬み憎み、折を見ては張華を外へ追いやろうと画策した。 ちょうど武帝が弟・司馬攸を警戒していたこともあり、張華が攸を推挙した話を「ほら、怪しい」とばかりに利用され、ついには幽州都督への転出が決まった。名目は北方異族の鎮撫という大任だが、 実態は中央から遠ざける左遷である。
ところが張華はそこで腐らなかった。着任早々に安北将軍・厳詢を派して鮮卑慕容部を打ち破り、さらに二十余の東夷諸国を従わせた。はるか馬韓や新弥までも朝貢に訪れ、幽州はかつてない安定を 迎える。仕事ぶりは見事だったが、皮肉なことにその成功こそが中央に不安を呼び込んだ。
そこへ伐呉に反対して恥を抱えた馮紞が、うらみ骨髄のごとく張華を仇視し始める。 「鍾会の二の舞になるぞ」と中傷を吹き込み、武帝の耳はあっけなく傾いた。 結果、張華は太常卿という肩書きだけ立派で権限のない職へ追いやられる。 功績が逆に仇となる典型 である。
司馬瑋の大頭と賈皇后の企み:権力抗争の中での奮闘
晋の恵帝の時代、朝廷は血みどろの政争に明け暮れていた。
楚王司馬瑋が一時的に政権を掌握すると、張華は王宮の将王宮を説得し、矯詔をもって司馬瑋を討ち取らせた。
見事な策謀は功績とされ、張華は右光禄大夫・侍中・中書監に任じられ、元康六年(296年)にはついに司空へと昇った。 だがその地位は見かけ倒しで、実権は賈南風が握っていた。
賈皇后は自らの子でない太子を廃そうと画策し、政権を独占しようとした。
張華らは必死に反対し、張華は『女史箴』を九段にまとめて皇后を諫めた。
だが、その言葉は虚空に消えたかのように効力を持たず、彼の忠言は無視された。
元康九年(299年)、賈皇后は太子を酔わせ、謀反の文書を書かせて群臣に示すという卑劣な策に出る。 群臣は次々と太子の死を求めたが、ただ一人張華だけが反対を貫いた。
筆跡を確認したところ確かに太子の手によるものであったため、張華もさすがに反論を失った。
しかし、彼はなおも「死に至らしめてはならぬ」と主張し続け、ついには死罪を免れたものの庶人に落とされるという結果となった。 張華は孤立を深めながらも、最後まで太子の命を救おうと踏みとどまったのである。
張華の最後:非業の最期と名誉回復
永康元年(300年)、趙王司馬倫は帝位を狙い、賈皇后の打倒を名目に兵を挙げた。
司馬倫は事前に張華にも協力を求めたが、張華はこれを拒んだ。
それでも彼は陰謀を暴こうとはせず、賈皇后打倒の大義に利用できると踏んで沈黙した。 翌日、司馬倫が兵変を決行すると、張華は賈后の一党とみなされて捕縛され、殿前で処刑を命じられた。
死を前にした張華は、処刑人の張林に「忠臣を殺すのか」と問いただした。
張林は「宰相の地位にありながら、太子が廃されるときに死をもって抗わなかったのはなぜか」と責める。
張華は「あの朝議で自分は反対を奏上している。記録も残っている」と反論するが、張林は「ならば辞職すべきだった」と返す。
張華は言葉を失い、ただ「自分は先帝に仕えた老臣であり、死を恐れはしない。ただ王室の行く末を憂うのだ」と嘆いたという。
その場で張華は二人の息子、張禕・張韙とともに処刑され、一族は離散した。
だが三年後の太安二年(303年)、司馬冏・司馬穎・司馬乂らが挙兵して司馬倫を誅し、張華の冤罪は雪がれた。
朝廷は正式に爵位を回復し、没収された財産も返還されたのである。
死後に名誉を取り戻した張華は、悲劇の忠臣として後世に語り継がれることとなった。
文学と評価
張華は政治家であると同時に文学者でもあった。詩三十二首が伝わり、その中には情愛を詠む五篇 の恋詩や、貴族社会を皮肉った作品もある。また博物学的随筆『博物志』を編纂し、自然界の珍奇 な事物を幅広く記録した。これは今日でも古代中国の知識を伝える重要な書として高く評価されて いる。
さらに張華は学者への理解も深かった。三国志の著者・陳壽の才能を高く評価し、その『三国志』 を賞賛して「晋書の編纂も任せるべきだ」とまで語った。張華は陳壽を中書郎に推挙しようとした が、荀勖の妬みで実現しなかったという。
同時代の人々は彼を「学識豊博で、謀略に長けた」と評した。しかし政争の荒波に翻弄され、非業 の死を遂げたことで、その人生は栄光と挫折が表裏一体のものとなった。後世では、才気に恵まれ ながらも時代に呑まれた悲劇の政治家として、同時に優れた文人として語り継がれている。
参考文献
- 参考URL:張華 – Wikipedia
- 『晋書』巻三十六・列伝第六 張華伝
- 『三国志』裴松之注
- 『梁書』皇后伝
- 『南史』巻五十六 張弘策伝
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FAQ
張華の字(あざな)は?
張華の字は茂先(もせん)です。
張華はどんな人物?
文学者として博物学的随筆『博物志』、政治家としても才覚を発揮した人物です。
張華の最後はどうなった?
永康元年(300年)、趙王司馬倫のクーデターで捕らえられ、処刑されました。
張華は誰に仕えた?
主に西晋の武帝・恵帝に仕えました。
張華にまつわるエピソードは?
呉討伐を強く推進して武帝を決断させた逸話、「三国志」の著者陳寿を見出したことでも知られています。
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