【1分でわかる】蔣琬とは何者か:諸葛亮の遺志を受け継いだ官僚【徹底解説】

蔣琬

1分でわかる忙しい人のための蔣琬の紹介(蒋琬)

蔣琬(しょうえん)、字は公琰(こうえん)、出身は荊州零陵郡湘鄉、生没年(?〜246年)
蜀漢の正統派官僚にして、諸葛亮の後を継いだ大司馬・安陽亭侯。諸葛亮の「社稷の器」として推薦され、劉禅から全面信任を受け政務を掌握。
北伐後の国家混乱状態にあって、閉関息民・水路攻攻構想など柔軟な戦略を提案し、蜀漢を比較的安定に導いた。
だが新たな革新よりも内政安定を選び、「静治の理」を体現した政治家として、その堅実さが光る。
誠実と控えめな力量は、晩年まで蜀漢の良識として崇められた。

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蔣琬を徹底解説!諸葛亮の遺志を継いだ静かなる実務官僚

若き日の蔣琬:名家出身と失態の始まり

劉敏・潘濬とは従兄弟にあたり、若年より才名を知られていた。
才気煥発とはよく言うが、彼の若さは必ずしも制御された知性とは結びつかなかったらしい。
劉備に随って入蜀したのち、蔣琬は広都長という地方行政官に就任した。
ところがある日、主君・劉備が突然視察に現れると、役所は荒れ放題、当の蔣琬は泥酔して転がっていた。


「何だこれは」と言いたいのは読者だけではない。劉備は当然激怒した。
刑罰すら検討されたこの事態を救ったのは、他ならぬ諸葛亮である。
彼は主君に進言した。「彼は社稷の器であって、凡庸の才ではない。
政を行うに民を安んずるを本とし、修飾を以て先とせず」と。
要するに「中身がいいから、外見やミスで評価するな」という説得だ。


劉備は諸葛亮の言葉に従い、蔣琬を処罰せず、形式上の免職にとどめた。
酒に溺れた凡庸な男を、未来の大将軍へとつなぐ一本の橋。それが諸葛亮の進言だった。奇妙なのはその夜である。蔣琬は夢を見る。
門の前に現れた牛の頭から、血が滂沱と流れている。
ホラー映画さながらの光景だが、彼は夢占い師・趙直を呼び、意味を問うた。
趙直は言う。「牛角と鼻は“公”の字の象徴。血は明兆。
あなたの地位は必ず“公”に達します」。


現実世界ではクビ寸前の酔っぱらいが、夢の中では“公”に昇格宣言を受けているのだから、皮肉も極まれりである。
だが、その後、蔣琬は什邡令に復帰し、やがて尚書郎に昇進。
処分どころかキャリアはむしろ加速する。
公私ともに“ふしぎなチカラ”が働いていたとしか思えない。 

諸葛亮が後継指名した男、その覚悟と任務

 蔣琬の人生が本格的に加速し始めるのは、諸葛亮が丞相となって開府した建興元年(223年)以降である。
このとき、彼は東曹掾に抜擢され、さらには茂才に推挙された。
ただしこの茂才、彼は自ら辞退し、劉邕・陰化・廖淳らに譲ろうとする。
普通の人間が見れば、これは“いい人キャンペーン”の一環に見えるかもしれない。
だが、諸葛亮の目には、そうした態度も含めて「社稷の器」と映ったのだろう。
彼は生前、密かに劉禅へ上奏していた。
「もし我が身に不幸あらば、軍国の重事は蔣琬に委ねたし」
この一言が、蔣琬の立場を決定的に変えた。
後継者として、彼は「言葉を遺された男」となったのだ。

諸葛亮の死後、蔣琬は尚書令に昇進。
以後は行都護・假節・益州刺史と立て続けに要職を歴任し、ついには大将軍にまで上り詰める。
さらに録尚書事として政務の統括権を握り、爵位も安陽亭侯となった。
後継者とは、後を継ぐだけの者ではない。
「前任の亡霊と闘い続ける者」でもある。
蔣琬はまさに、諸葛亮という神格化された宰相の後に立ち、その影を浴びながら日々の政務に没頭していた。

だが、その背後には一つの覚悟がある。
諸葛亮のように策をめぐらさず、政敵を排さず、自身の存在を際立たせない。
むしろ空気のように、自然に機能する政治家であることを選んだ。
英雄が世を動かす時代が終わった後に現れるのは、こういう「影の宰相」だ。
その手腕は派手ではないが、だからこそ、彼は長く蜀漢を支えられた。 

北伐は夢に終わる:慎重策の限界と戦略の葛藤

諸葛亮が失敗し続けた北伐という幻想。それを引き継いだ蔣琬は、同じ轍を踏むことを避け、慎重に策を練っていた。
延熙二年(239年)、彼は大司馬に昇進し、構想していたのは漢水・沔水を経由しての水上進軍、
標的は魏興や上庸といった、正面ではない脇腹だった。
その狙いは奇襲と見せかけた陽動か、それとも策に見せかけた保身か。
いずれにせよ、この計画は実行に移されることはなかった。

理由は単純である。蔣琬は病を得て、指揮が困難となった。
さらに朝廷内部でも慎重派が多く、攻勢に出るべきではないという声が支配的だった。
そして呉。かつての盟友であるこの国家でさえ、彼の意図を疑った。
「蔣琬は呉を裏切って魏と通じるつもりでは?」
そう主張したのは、歩隲と朱然という二人の重臣だった。
孫権はこの話を聞いたが、彼は信じなかった。
蔣琬を信じたからではなく、信じたフリをしたに過ぎないのかもしれない。

計画が頓挫した後、蔣琬は自ら兵を率いて涪に駐屯するよう朝廷に上奏した。
同時に姜維を鎮西大将軍として涼州の統括に任じる。
兵を動かすより、動かす“準備をすること”のほうが政治的に意味があると判断したのだろう。
ここにも蔣琬の「策を打たず、空気を支配する」という手法が表れている。
北伐とは、軍事行動である以前に、政略・外交・人心を織り交ぜた“劇場”でもあった。 

 

心を広く、人を咎めず:蔣琬の器量と逸話

 宰相としての蔣琬の最大の特徴は、豪胆さでも策謀でもなかった。
それは「人を咎めない」という、政治家にあるまじき“無反応力”である。
たとえば督農・楊敏。彼は蔣琬の背後でこう言い放った。
「蔣公ってさ、ぼーっとしてて頼りなくね? 諸葛亮の方が全然マシだろ」。
普通なら激怒して、讒言罪で問答無用の粛清ルート一直線である。
しかし蔣琬は、まったく動じなかった。

「確かに私は前任者ほどじゃないし、それを聞いて何か変わるか?」
さらに彼は、自分の“愦愦(こんがらがってる)”さを正面から認め、
「自分が法や理に反した判断を下してしまうなら、それは愦愦というしかない」と答えた。
名誉にしがみつく者には真似できない、徹底した“自己無化”の哲学である。

蔣琬の咎めなさは、無関心ではない。
それは「他人の批評より、制度や職務の合理性に従う」という合理主義である。
楊敏は後に別件で捕らえられるが、蔣琬は彼に重罰を科さなかった。
それどころか、その過程で周囲から求められた復讐を静かに否定した。
これが、彼の人物像を最もよく表す逸話だ。

また、東曹掾・楊戲とのエピソードも興味深い。
楊戲は極端に無口で、蔣琬と会話しても基本的に無反応。
周囲が「あいつ、無礼すぎませんか」と問い詰めると、蔣琬はこう答えた。
「人の心は顔のようにみな違う。面と向かって褒めて裏で貶すより、黙っているほうが誠実ではないか」
この発言こそ、後世の日本語でいう「十人十色」の語源とされる所以だ。

蜀漢を支えた静かな柱:蔣琬の死とその余韻

延熙九年(246年)、蔣琬は病の床でその生涯を閉じる。
享年は不明、だがその死は蜀の政権中枢にぽっかりと穴を開けた。
彼の諡は「恭」。人柄を写す鏡のような字がそこに与えられていた。
彼の墓は現在も四川省綿陽西山に残りっている。

彼には派手なエピソードがなく、「大将軍」であり「大司馬」でありながら、権威を振りかざすことなく職務を全うした男として、人々の記憶には刻まれた。
そして、蔣琬を評価した者たちは、例外なく”彼の控えめさ”を称賛している。

諸葛亮は生前、こう断言していた。
「公琰は忠雅を志とし、共に王業を成すべき人物」。
「もし我に不幸あらば、その後事は蔣琬に託すべし」。
彼の遺言に近い言葉の数々は、すべてこの男の“信頼資本”の厚さを証明している。
また、陳寿は「方整にして威重あり」と記し、さらに裴松之も補足して「過たず、失わず、ただ穏やかに国を守った」と綴る。

だが、その穏やかさは同時に変革なき継承でもあった。
費禕と共に時代を維持したが、打破する力は持たなかった。
王夫之はそれを痛烈に批判し、「北伐構想は愚策であり、蜀漢はこの死と共に終焉した」と述べた。
だが、それでも蔣琬は、自らの任務を声を立てずに果たした。
大きな音を立てずに、重いものを運ぶ。それがこの静かな宰相の本質だった。 

参考文献

FAQ

蔣琬の字(あざな)は?

蔣琬の字は公琰(こうえん)です。

蔣琬はどんな人物?

蔣琬は蜀に仕え、温厚で中庸を尊び、安定した政務を行った人物です。諸葛亮の後継者として重責を担い、蜀漢の国政を支えました。

蔣琬の最後はどうなった?

西暦246年に亡くなり、諡号は「恭」とされました。

蔣琬は誰に仕えた?

主に劉備とその後継の劉禅に仕えました。

蔣琬にまつわるエピソードは?

部下の楊戲が会話の場で沈黙を守る姿勢を「人それぞれ、十人十色」と解釈し、その誠実さを評価した逸話で知られています。

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