【1分でわかる】盧植:劉備の先生で黄巾を討ち、董卓に逆らった儒将【徹底解説】

盧植

1分でわかる忙しい人のための盧植の紹介

盧植(ろしょく)、字は子幹(しかん)、出身は涿郡涿県、生没年(?~192年)
後漢末期の政治家であり軍事家、そして経学の大家として知られる人物。
若い頃に大儒・馬融の門下に入り、美女の歌舞に囲まれた浮ついた講義の場でも一心不乱に学び続け、その専念ぶりを師から高く評価された。
やがて九江太守・廬江太守として反乱や蛮族を平定し、劉備や公孫瓚といった後世に名を残す人物を門下に迎えている。

黄巾の乱では北中郎将として張角を追い詰めるも、宦官への賄賂を拒んだため讒言を受け失脚。
その後、董卓の横暴に唯一声を上げ、命を狙われるほどの反骨を示した。
晩年は隠棲し、初平三年(192年)に没した際には、棺槨を用いず布帛で遺体を包むのみという質素な葬儀を望んだ。
学者としては『尚書章句』『三礼解詁』を著し(いずれも失われた)、儒学の宗匠と称される存在であった。曹操からも「国の楨幹」と賞されたその姿は、学と節義を兼ね備えた後漢末の模範とされた。

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盧植を徹底解説!黄巾の乱を戦った北中郎将であり劉備・公孫瓚の師、後漢末の学問と節義を体現した名臣の生涯

盧植の学問修行と師・馬融との出会い

盧植の学問修行は、後漢末の知識人社会を映し出す小さな縮図でもある。
若き盧植は大儒・馬融に師事した。馬融といえば宮中の縁故を頼みに豪奢な暮らしを送り、講義の席に美女を侍らせて歌舞をさせるという、学問と娯楽をゴチャ混ぜにした人物である。
普通の若者なら色香に釣られて視線を泳がせるところだが、盧植は一切ぶれなかった。数年のあいだ、顔を上げることもなく経典に集中したと伝えられる。

その徹底ぶりに、かえって馬融の方が感心したというのだから皮肉である。
師の浮ついた環境すら修行の試練と受け止め、動じない姿勢こそが盧植の学者としての基盤を固めた。
学問とは、紙と墨の世界だけではなく、欲望や幻惑に耐える精神の鍛錬でもあった。馬融が「この弟子は只者ではない」と見抜いたのも無理はなかった。

士としての矜持:竇武への直言

建寧元年(168年)、大将軍竇武が霊帝擁立の功績によって封侯されたとき、盧植はまだ布衣の身であった。にもかかわらず、彼は上書して竇武に辞退を勧めた。「これは天の功であり、個人の手柄に帰すべきではない」と。
竇武は結局受け入れなかったが、この一件は盧植の姿勢を鮮やかに示している。権力の前に膝を折らず、正論を正論のまま突きつける。それは無謀にも見えたが、士としての矜持にほかならなかった。

後世の史書が彼を「士の楷模」と呼んだのも、この時点で既に片鱗があったからだろう。結果として竇武はその言を用いなかったが、盧植の名前は世に知られることとなった。学問で鍛えた節操は、すでに現実の政治の場で牙を剥き始めていたのである。

仕官の始まりと九江太守としての活躍と劉備・公孫瓚との出会い

若い頃から州郡の招聘を辞退し続けた盧植が、ついに官界に登場したのは建寧年間のことである。博士に任ぜられて仕途を踏み出すと、熹平四年(175年)には九江太守に抜擢された。当時、九江では蠻族が反乱を起こしていたが、盧植は武力だけに頼らず、恩信を示すことで彼らを帰順させた。剣よりも言葉を選び、流血よりも調和を重んじるその姿勢は、まさに儒者の政治家らしいものだった。

しかし功績の最中に病にかかり、やむなく太守の職を退いた。退任後の時間を盧植は無駄にしなかった。著作『尚書章句』『三礼解詁』の執筆に専念し、やがて後に歴史を揺るがす人物たちを門下に迎える。

公孫瓚、そして若き日の劉備である。
まだ無名の青年だった劉備がここで学び、儒学と為政の大義に触れたことは、後の蜀の皇帝としての基礎を形作る一因ともなった。九江太守としての盧植の任官は、地方統治の成功だけでなく、次代を担う弟子たちを育てる土壌ともなったのである。

廬江太守・議郎としての経歴

盧植は、次いで。南夷が反乱を収めるため廬江太守に任命された。
朝廷は彼が九江で蠻族を懐柔した前例に期待したのだろう。
実際、盧植は武力による鎮圧ではなく、道義を掲げて人心をまとめる方策をとった。剣を振りかざすより、義を説き人の心を掴む。彼が求めたのは短期的な勝利ではなく、長期の安寧だった。

その後、議郎・侍中・尚書へと転じ、東観において蔡邕や馬日磾らと共に史書の補修や五経の校訂に従事した。いわば後漢学問の裏方作業を担ったのである。

光和元年(178年)に日食が起きると、盧植はただ天文現象を眺めて終わるのではなく、これを機に政治の腐敗を指摘した。上書で八つの改善策を示し、良吏の登用や冤罪の赦免、疫病対策から財政の健全化に至るまで、まるで現代の政策提言書のように多岐にわたる改革案を列挙した。

だが、肝心の皇帝は耳を貸さなかった。漢の火徳はすでに陰に侵され、災異は繰り返されても、権力者の耳には届かない。賢者が声を枯らしても、虚空に吸い込まれるばかりだった。盧植は制度を整え、道理を説き、天象をもって諫めたが、政治の場では沈黙の方が重宝される。ここでもまた、彼は「声高に諫めて退けられる」役割を演じることになる。だがその姿こそ、後に「儒宗」と称えられる所以であった。

黄巾の乱と北中郎将盧植

中平元年(184年)、後漢王朝を揺るがす黄巾の乱が勃発した。四方で賊徒が蜂起し、洛陽の朝廷は震えあがる。鎮圧を任されたのは北中郎将・盧植である。彼は持節を帯びて北軍を率い、張角を討伐する大任を担った。盧植は幾度か張角軍を撃退し、ついに張角を広宗へと追い詰めた。城を囲み、雲梯を築いて決戦の備えを整えたとき、勝利は目前に見えた。しかしここで歴史の皮肉が訪れる。

戦場に派遣された宦官・小黄門左豊が「賄賂を寄越せ」と示唆したが、盧植はこれを拒んだ。学問で培った清廉さは揺るがなかった。だが、結果は悲惨だった。左豊は「盧植は攻撃を怠けて天罰を待っている」と讒言し、漢霊帝はそれを鵜呑みにする。勝利目前の将軍は、囚車に押し込められて都へ送還されたのである。

後任に任じられたのは東中郎将・董卓だった。しかし董卓は下曲陽で大敗を喫し、戦場は再び混乱する。結局、皇甫嵩の弁護によって盧植は罪を免れ、尚書に復帰した。
歴史の帳尻合わせは一応果たされたが、賄賂を拒んで失脚し、権力に屈せず戦功を失った事実は消えない。盧植が得たのは功績ではなく、清廉の名であった。

董卓の台頭と直諫する盧植

中平六年(189年)、霊帝が崩じ、劉辯が即位した。宮中は権力争いの渦中にあり、大将軍何進は宦官を誅殺するため董卓を洛陽に召した。
盧植はこの動きを危険視し、董卓の凶暴さを理由に「呼び込めば後悔する」と必死に諫めた。しかし、誰も耳を貸さず、歴史は最悪の方向へと転がっていった。

やがて宦官と外戚の対立は頂点に達し、張譲ら宦官は劉辯と劉協を連れ出して洛陽を逃亡した。これを追ったのが盧植の部隊であり、河辺で追い詰められた宦官たちは自ら命を絶った。皇帝二人は無事に宮中へ戻ったが、混乱は収まらず、代わって董卓が勢力を握ることとなる。

董卓は帝を廃立しようと企み、百官を集めて議論させた。誰も反対の声を上げられない中で、ただ一人盧植だけが正面から異議を唱えた。その言葉に董卓は激怒し、命を奪おうとしたが、蔡邕や議郎の彭伯らの嘆願でなんとか処刑を免れ、官を辞することで決着した。ここでも盧植の剛直さは揺らぐことがなかった。

晩年の隠遁と最期

董卓の専横が極まると、盧植は自らの命が狙われることを恐れた。そこで轘轅の小道を選んで洛陽を離れ、追手を振り切って上谷郡の軍都山へ身を隠した。俗世から距離を取り、隠者のように暮らしながら世の成り行きを見守ったのである。

その後、袁紹から軍師として迎えたいとの誘いを受ける。だが、盧植は長く権力の中に身を置くことを望まず、やがて再び隠退した。権力に翻弄されることの多かった人生の終盤で、彼が選んだのは静かな暮らしだった。

初平三年(192年)、盧植はついにこの世を去る。その臨終の際に子へ伝えたのは「節葬」であった。豪華な棺槨は不要、布一枚で遺体を包めばよいと遺言したのである。虚飾を拒み、最後まで清廉を貫いた盧植の最期は、彼の生き方そのものを映し出していた。

盧植の人物像と学者としての評価

盧植の風貌は、まさに堂々たるものであった。身長八尺二寸(およそ一九〇センチ)という体躯に、雷鳴のように響く声。姿を現すだけで人々を圧倒する存在感があったという。

しかし、彼の真価はその見かけよりもむしろ学問にあった。『尚書章句』『三礼解詁』といった著作を残し(現存はしない)、儒学の正統を継承しつつも、自らの解釈を加えて後世に影響を与えた。その学問のあり方は、単なる知識の整理ではなく、実際の政治や倫理の実践へと結びつくものであった。

また、酒に関しても異例の逸話が伝わる。一石を飲んでも酔わなかったというのである。大男が大声を張り上げながら酒樽を空けても、顔色ひとつ変えず議論を続けた様子を想像すると、ただの豪傑ではなく、学者としての落ち着きと胆力を兼ね備えていたことが見えてくる。

その生涯を総括すれば、盧植は後漢末の乱世においても節操を守り抜いた大儒であり、政治家であった。
『後漢書』は彼を「風霜に晒された草木のように貞節が際立つ」と評し、曹操すらも「北中郎将の盧植は、その名が海内に知れ渡り、学識は儒者の頂点にして、人としての規範、国家を支える柱であった」と讃えている。盧植は、権力に屈せず、自らの信念を最後まで貫いた人物だった。

参考文献

FAQ

盧植の字(あざな)は?

盧植の字は子幹(しかん)です。

盧植はどんな人物?

盧植は東漢末の政治家・軍事家・経学者で、学問に秀でた大儒でした。剛毅で節操を重んじ、濟世の志を抱いた人物であり、劉備や公孫瓚の師としても知られています。

盧植の最後はどうなった?

西暦192年に上谷郡軍都山で亡くなりました。

盧植は誰に仕えた?

主に後漢の朝廷に仕え、尚書や北中郎将などを歴任しました。

盧植にまつわるエピソードは?

黄巾の乱で張角を追い詰めながらも、宦官に賄賂を拒んだために誣告され失脚した逸話で知られています。

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