1分でわかる忙しい人のための盧植の紹介
盧植(ろしょく)、字は子幹(しかん)、出身は涿郡涿県、生没年(?~192年)
後漢末期、儒学と軍事の両刀を構えた知性派武将。黄巾の乱では張角を追い詰めながら、宦官への賄賂拒否で失脚という筋金入りの“正直者損する”タイプ。弟子には劉備や公孫瓚と、将来三国を賑わす顔ぶれが揃う教育界の巨星でもあった。
後に董卓の専横に唯一声を上げるも干され、山中へ隠棲。その最期まで節を守り抜いた漢末の忠臣は、死後も曹操らに絶賛され、学問と忠義の象徴として一族に受け継がれていった。
盧植を徹底解説!学も義も捨てずに戦った男
馬融門下で才覚を磨く:盧植の学問と誠実な修学時代
「英雄は血統ではなく行動で語れ」なんて、昔誰かが言ってた。
だが、盧植の場合はその両方を兼ね備えていた。
若くして盧植が師事したのは、大儒・馬融。明徳皇后の親族ということで、金はある、地位もある、そして授業はショーのようだった。
講堂には香が漂い、美女が舞い、琴が鳴る。「知識の殿堂」というよりは、夜の社交場。
だが、そんな浮ついた空間の中で、微動だにせず講義に耳を傾け、筆を走らせ続けた若者が一人だけいた。
それが盧植である。
数年にわたって美女の舞にも目をくれず、ただ講義に没頭するその姿勢に、さすがの馬融も心を動かされた。
「この男、骨が違う」と称されたのは、その狂気じみたまでの集中力と実直さの賜物だった。
学成した盧植は郷里に戻り、私塾を開く。門を叩いたのが、後の昭烈帝・劉備と、白馬将軍・公孫瓚である。
彼らが世に出るはるか前、ひとつ屋根の下で「盧先生」と呼びながら頭を下げていた時代が、確かに存在した。
経学と政論の使徒として:九江太守から東観編纂の学者へ
熹平四年(175年)、九江で蠻族の反乱が起きたとき、白羽の矢が立ったのが盧植だった。
武官でもなく、武勇で知られる人物でもない。けれど「彼なら話して帰順させるかもしれない」と、朝廷は賭けに出た。
結果、見事に収めた。兵を動かさず、血も流さず。説得で治めるという芸当を、当たり前のようにやってのけた。
だが体がそれについてこなかった。任地で病を得て、やむなく辞任。
療養生活に入るも、筆を折ることはなかった。『尚書章句』『三禮解詁』今では失われた名著たちは、この時期に書かれたものである。
病と戦いながら書物に向かう男に、朝廷も無関心ではいられなかった。
盧植はたびたび政論を上奏し、経学に関する意見を述べ続けた。
その筆致は、言葉選びこそ穏やかだったが、言っている中身はだいたい「この国、終わってますよ?」という悲鳴に近い。
やがて南方で再び異変が起き、九江での手腕を買われて廬江太守に任命される。
ここでも戦火を広げず、民を守り、わずか一年で議郎へ昇進。
すぐに東観へ召され、蔡邕や馬日磾とともに『漢記』の補筆と《五経》の校訂にあたった。
尚書に昇進したこの時期、盧植の仕事場は朝廷と図書室を行き来するだけだったが、そのどちらにも「息を吸うように真面目」な男の気配があった。
大声で騒ぐ者の隣で、黙々と記録を整える者がひとり。それが、盧植だった。
黄巾の乱と宦官の妨害:誣告され罷免された北中郎将の奮戦
中平元年(184年)、黄巾の乱が勃発した。
天を戴くべきは蒼天か黄天か、などという宗教問答を力ずくで押し通そうとする張角一派に、
朝廷は大慌てで討伐軍を編成。
その中で最も期待されたのが、北中郎将に任じられた盧植だった。
持節を帯び、北軍を率いて出陣した盧植は、張角を数度打ち破り、ついに広宗に追い詰める。
そこで雲梯を建てて攻城戦を準備。あと一歩。そう、あと一歩で反乱は鎮まるはずだった。
だがその矢先、前線に現れたのが宦官・左豊である。
名目は「視察」、実態は「口利き営業」だった。
「ここは戦地、袖の下など持ち合わせぬ」とばかりに盧植が突っぱねた結果、左豊は本国にこう報告した。「張角など雑魚。だが盧植は腰が重い。天の裁きを待ってるらしい」と。
これを鵜呑みにした漢霊帝は、激怒。
盧植を囚車で洛陽に引き戻し、軍権を剥奪した。
代わって任じられたのが董卓。だが彼は下曲陽で敗北。
無駄に人を斬り、食糧を浪費し、結果だけが虚しく積まれた。
この不合理な交代劇に、沈黙しなかったのが皇甫嵩だった。
彼の弁明によって、盧植は再び朝廷へ復帰することになる。
戦場では敵を退け、朝廷では讒言に負け、同僚にすくい上げられる。
まるで将棋の駒のように扱われながらも、盧植は一手一手に誠実だった。
董卓の専横と正義の諫言:命を賭して帝を救った勇断
中平六年(189年)、霊帝が崩御すると、都には怪しい風が吹き始める。
政治の中枢にいた大将軍・何進が「宦官を一掃する」と息巻き、并州牧・董卓を都に呼ぼうとしたとき、
誰よりも早く「ヤバい」と察知したのが盧植だった。
「あいつを呼ぶな、火事場に油を撒くようなもんだ」と盧植。だが何進、耳に入らず。
やがて宦官に暗殺され、都は一気に混乱へと転がり込む。
張讓らが劉辯・劉協を連れ脱出したとき、盧植は即座に軍を動かし、小平津で皇帝たちを保護した。
その混乱の隙を突いて入京したのが、他でもない董卓だった。
即座に実権を掌握すると、群臣を集めてこう言い放つ。
「今の帝は器が小さい、取り替えるぞ」。
会議室は、まるで停電した会議のように沈黙。咳払い一つ聞こえない。
そんな中で唯一、盧植だけが立ち上がる。
「陛下を取り替える? お前、それを“政治”と呼ぶのか。
次は何を替える? 王朝の看板か、それとも歴史の筆先か?」
その場が凍りついた。いや、董卓の怒気でむしろ熱帯夜だったかもしれない。
董卓は即座に剣を抜く。殺す気満々。
だが、蔡邕と彭伯が必死に割って入り、盧植は免官という名の助命を受ける。
理屈で鉄をも曲げる盧植の言葉も、董卓の前では無力だった。
剣で抗う者は敗れ、黙る者は生き延びる。だが盧植は、言葉で抗った。
その一言が命を縮めても、彼は“口を閉じる”ことを恥とした。
懼れて山中に退く:追手をかわし隠棲した儒官の矜持
董卓の専横に対して諫言を放ち、命からがら免官となった盧植。
その身に浴びたのは賞賛ではなく、敵意と監視の目だった。
彼は病を理由に辞職を願い出る。だが、それはただの退職願ではない。
「今ここで黙れば、歴史は書き換えられる。だが、まだ終わってはいない」
そう思ったかどうかは定かではないが、盧植は“逃げる”ことを選んだ。
都を離れる道、それも表の街道ではなく、轘轅の小道。
まるで猫が敵の犬を避けるように、裏手から抜けた。
董卓はその動きを察知し、追手を放つ。懷県での捕縛を狙ったが、追いつけず。
盧植はそのまま北方、上谷郡の軍都山へと姿を消す。
そこから先、彼は人と距離を置き、山中で静かに暮らした。
門を閉ざし、酒も詩も断ち、ただ書と静寂を友とする生活。
都の政争とは無縁の場所で、“自分”を取り戻していく。
世に抗う者はしばしば剣を持つ。だが、盧植の武器は筆だった。
その筆は一度、都を離れたが、魂だけは“正しさ”の側に残っていた。
その死と後世への影響:盧毓ら子孫と曹操・後漢の高評
初平三年(192年)、盧植は静かにこの世を去った。
「余計なことはするな、棺もいらぬ。布一枚あれば十分だ」
そう言い残し、簡素な葬儀を望んだという。
死後、その信義と学徳は朝野で語り継がれた。
曹操は盧植の墓を整備し、子孫にまで礼を尽くした。
「北中郎将の盧植は、その名が海内に知れ渡り、
学識は儒者の頂点にして、人としての規範、国家を支える柱であった」
これは後に天下を握る曹操が、自ら記した讃辞である。
盧植の筆と志は、彼の子孫に引き継がれた。
その子・盧毓は魏で吏部尚書を務め、選挙(人材登用)を司った。
孫の盧欽、盧珽、曾孫の盧浮、盧志と代々が中央政権で重職に就く一族となる。
『後漢書』はその節義を「風霜に晒された草木のように貞節が際立つ」と讃えた。
乱世にあって言葉で抗い、信念で生き、家を支えた男。
その死は静かでも、影響はあまりに深かった。
参考文献
- 参考URL:盧植 – Wikipedia
- 後漢書
- 三国志
- 資治通鑑
FAQ
盧植の字(あざな)は?
盧植の字は子幹(しかん)です。
盧植はどんな人物?
盧植は東漢末の政治家・軍事家・経学者で、学問に秀でた大儒でした。剛毅で節操を重んじ、濟世の志を抱いた人物であり、劉備や公孫瓚の師としても知られています。
盧植の最後はどうなった?
西暦192年に上谷郡軍都山で亡くなりました。
盧植は誰に仕えた?
主に後漢の朝廷に仕え、尚書や北中郎将などを歴任しました。
盧植にまつわるエピソードは?
黄巾の乱で張角を追い詰めながらも、宦官に賄賂を拒んだために誣告され失脚した逸話で知られています。
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