【1分でわかる】黄祖は本当に無能?孫家から江夏を十数年守り続けた男【徹底解説】

黄祖

1分でわかる忙しい人のための黄祖の紹介

黄祖(こうそ)、字は不詳、出身は不詳、生没年(?~208年)

後漢末期に荊州牧劉表に仕えた宿将で、江夏郡太守を務め、孫氏との抗争に生涯を捧げた人物である。初平三年(192年)、孫堅が荊州を攻めると黄祖は迎撃にあたったが敗走し、部将呂公の伏兵で孫堅を戦死させたことで名を知られる。その後も劉表のもとで江夏を守ったが、建安三年(198年)には曹操から送られた禰衡を斬殺し、粗暴な性格を露呈した。

建安四年(200年)には孫策と沙羨で大戦を繰り広げ大敗、妻子を捕虜にされるなど壊滅的損害を受けた。その後も孫権の度重なる侵攻を受け、部下の甘寧が孫権の将凌操を射殺し一時は危機を免れたが、軍紀の乱れや老衰も重なり衰退していった。
建安十三年(208年)、孫権が江夏を攻め、周瑜・呂蒙・凌統らが先鋒となり黄祖軍を撃破。黄祖は逃亡するも孫権軍の馮則に斬殺された。黄祖は劉表の腹心であったが、最期は孫氏に討たれ、宿将としての役割を終えた。

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黄祖を徹底解説!孫堅を討った栄光から孫権に斬られる最期まで

孫堅との戦いと死

初平三年(192年)、袁術の命を受けた孫堅が荊州へ侵入した。迎え撃ったのは劉表の宿将・黄祖である。戦いの舞台は樊城と鄧州の間、両軍は激しく衝突したが、やがて黄祖は押され、峴山へと退いた。
しかし絶体絶命の場面で思わぬ逆転が起こる。黄祖の部将・呂公が竹林に伏兵し、矢を放って孫堅を射殺したのである。三十七歳の若さで散った猛将は、黄祖自身ではなくその部将の矢に討たれた。
その遺体は劉表の手に渡ったが、長沙人の桓階ではかつて孫堅に孝廉として推挙された恩を忘れず、報いるために危険を承知で劉表のもとへ赴いて、遺体の返還を求めたのである。劉表はその義に感じ入り、孫堅の遺体は孫家へ戻された。恩義の重さが、戦乱のただ中で武人の礼を動かした一幕であった。
やがて孫堅の甥・孫賁が残兵を率いて袁術に帰属し、豫州刺史に任命された。こうして、周りに救われた黄祖であったが、その名は大きな戦果とともに刻まれた。

禰衡を斬る

建安三年(198年)、曹操は手に余る問題児・禰衡を荊州牧の劉表へ送り出した。禰衡はそこで態度を改めるどころか、劉表にまで無礼を働く。困った劉表は「これは自分では手に負えぬ」と判断し、性急で武人肌、文人を恐れぬ江夏太守・黄祖に押し付けた。

黄祖は最初、息子の黄射と禰衡が親しくしていたこともあって、それなりに厚遇した。しかし禰衡はそんな好意をよそに、黄祖を面と向かってからかい、繰り返し侮辱したのである。剣より口のほうが鋭い相手に、黄祖の我慢も限界に達した。

結局、黄祖は短気を爆発させて剣を抜き、禰衡を斬り捨てた。口喧嘩で負け続けた武人の、力技の最終解決である。だがその後、この件に関して恩賞や任免の記録は残されていない。歴史には「勝った」というより「ついに堪忍袋の緒が切れた武人の姿」として刻まれたにすぎない。

孫策との沙羨の激戦

建安四年十二月(200年1月)、孫策が軍を率いて沙羨に進軍してきた。 劉表は甥の劉虎と南陽の韓晞に兵五千を与え、黄祖の支援に送り込む。 こうして黄祖軍は援軍を得たが、対する孫策は弟の孫権に加え、周瑜・呂蒙・程普・韓当・黄蓋といった呉の屋台骨を成す面々が、揃いも揃ってこの地に集結していた。黄祖にとっては、相手が悪すぎる布陣だった。

戦は、始まった瞬間から激烈だった。 孫策が自ら馬上で鼓を叩き、兵を奮い立たせた。火攻めが仕掛けられ、煙と炎が渦を巻く中で、矢が雨のように飛び交う中で黄祖軍は崩れた。
結果は無惨にも、援軍の韓晞は討たれ、劉虎も抗えず、黄祖の妻子は捕虜となり、兵は一万人が溺れて命を落とした。孫策は戦船六千艘を奪い取り、その勢いを誇示した。
孫策はこの勝利を朝廷に上奏し「馬上で鼓を叩き、兵を励ました。火と矢が入り乱れ、心を震わせる戦いであった」と報告した。曹操も「猘児(けものの子)と鋒を争うは難しい」と感嘆している。負けた黄祖であったが、孫策は東へ進み江夏を守るという目的は達成し、本人の知らぬところで情勢によって救われている。

孫権と甘寧の因縁

建安八年(203年)、孫策の跡をついだ孫権が江夏に進軍してきた。 そこに立ちはだかったのは、まだ「伝説」となる前の、若き甘寧である。 先鋒を担ったのは校尉・凌操で、黄祖軍の先鋒を斬り、黄祖を敗走させる。勢いに乗った凌操は軽舟で追撃し、本隊から孤立してしまう。 この時、隊から離れた凌操を、甘寧は見逃さず、弓を取り矢を放ち、凌操を射殺した。 黄祖はこの一撃によって命を拾いすることになる。

しかし、その後がいただけない。 黄祖の都督・蘇飛は何度も甘寧を推薦したが、黄祖は耳を貸さず、むしろ甘寧の客人を懐柔して自分の部下にしようと画策した。だがそんな姑息なやり方では人心はついてこない。やがて客人たちは一人、また一人と離れていった。
命を救ってくれた将を冷遇し、肝心な場面で信頼を欠く。黄祖の粘り強さは確かだが、その勝機を自ら手放す場面も多かったのである。

周瑜との小競り合いと曹操軍の侵攻

建安十一年(206年)、かつての沙羨で大敗を喫し、孫策に苦杯をなめさせられてから数年。
勢いを取り戻そうとしたのか、江夏太守は部将の鄧龍に数千の兵を預け、柴桑への進軍を命じる。
だが、迎え撃ったのは呉の都督・周瑜で、戦の才にかけては当時随一と評される男が、鄧龍の軍を粉砕し、その身を捕虜として孫権のもとに送り届けた。あっけなく、またも自軍の将を失った。

その一方で、北方では曹操が動いていた。
張遼を派遣し、江夏の一部を奪取している。黄祖の統治する領域は、内と外からじわじわと削られ、もはや盤石とは言い難い状態となっていた。

甘寧の進言と孫権の迷い

建安十二年(207年)、甘寧がついに孫権の陣営に加わり、進言を始める。
彼はまず「漢王朝は衰微し、曹操は簒奪の賊となっている。南荊の地は山川に囲まれ、戦略的に有利である」と述べた。そして、「劉表は浅慮、その子も継げる器ではない。黄祖は老い、兵は飢え、武器は錆び、指揮系統は形骸化しつつある。今こそ攻めれば、必ず勝てる。黄祖を討てば、西への道が開け、巴蜀すら視野に入る」と彼の言葉は未来の地図をも描いていた。

孫権は心を動かされた。だが張昭は「国が不安定な時に戦を仕掛けるのは、火に油を注ぐようなものだ」と慎重論で真っ向から反対する。対して甘寧はすかさず「君は蕭何の重任を任されながら乱を恐れるのか。古人を慕うならば行動すべきだ」と切り返す。歴史的偉人を引き合いに出して詰め寄るあたり、彼の豪胆さは際立っている。

重苦しい空気の中、孫権が盃を掲げた。
「興覇よ、今年の行軍は卿に託す。卿の方略で黄祖を破れば、その功はすべて卿のものだ」
孫権は張昭の声を押し切って、甘寧に託す決断をした。ところが呉範は「今年は利が少ない。来年の戊子には劉表が亡びる」と時を読む者の声は、淡々としていた。

結局、孫権は出兵を決めが黄祖は討てず、戦果は挙がらなかった。しかも、表兄(母方のいとこ)の徐琨が流れ矢で戦死するという苦い結末となった。黄祖は老衰・無能・財穀欠乏と散々に評されながら、なおも江夏に踏みとどまった、黄祖らしい粘りであった。

夏口の決戦と最期

建安十三年(208年)、いよいよ宿命の幕が下りる時が来た。孫権は江夏討伐の軍を再び発し、周瑜を前部大督に任じ、呂蒙や凌統といった優等生が従う。
途中、呉範が尋陽で環境を視察し「即刻加速すべきだ」と進言する。 黄祖討伐の機運は高まっていた。

迎え撃つ黄祖は、最後の意地を見せた。漢水の入口に艨艟(大型戦艦)二艘を大石に括りつけ水路を塞ぎ、さらに艦上と河岸に数千の兵を配置する。 艦には千余人の弓弩兵を乗せ、矢の雨で孫権軍を寄せ付けなかった。老将の執念は、ここに極まったかに見えた。
だがこの布陣、例えるなら「水鉄砲で戦車を止めようとした」ようなもので、呉軍の勢いを止めるには至らなかった。

偏将軍董襲と凌統が百人の死士を率いて二重鎧で突撃し、董襲は刀で二艘の連結を断ち切り、凌統は張碩を斬り捨てた。
黄祖も負けじと反撃を指示し、水軍都督・陳就を送り込むが、呂蒙が先鋒に立ち自ら討ち取り、その船ごと奪ってしまう。守りの網は一つひとつ破られていった。
孫権軍は勢いに乗り、ついに凌統が城を落とした。今回は黄祖に救いもなく単身で逃げ出したが、孫権軍の騎兵・馮則に捕らえられ、ついに斬殺された。

孫権軍は江夏の大半を制圧し、捕虜となった民は数万にのぼった。
何度も負けても粘り続けた黄祖だが、このときばかりは運も力も尽きた。江夏を守り抜いた老将のしぶとさは、最後に散ることでようやく歴史に刻まれたのである。

黄祖の評価

黄祖の評判は、同時代から決して高くはなかった。孫策は「黄祖は狡猾に立ち回り、劉表の腹心として彼を威張らせていた。しかし家族や部曲を失い、結局は劉表を孤立させて虚しい存在にした」と記し、痛烈な批判をしている。
しかし、事実を見れば、孫堅を退け、その後何度も襲いかかる孫策・孫権の大軍、そのたびに踏みとどまり、時には矢を放ち、時には川を封じ、時には部将を失いながらも、ひとつの城を守り続けた。
その姿は、戦場に生きる者の「粘り強さ」そのものであり、勝利よりも価値のある持ちこたえる戦いの象徴でもある。

参考文献

黄祖のFAQ

黄祖の字(あざな)は?

黄祖の字は伝わっていません。

黄祖はどんな人物?

黄祖は鉄匠出身で武勇を買われて劉表に仕えましたが、粗暴で性急な性格のため、文人を軽んじる面がありました。

黄祖の最後はどうなった?

建安十三年(208年)、夏口で孫権軍に敗れ、逃亡中に馮則に斬殺されました。

黄祖は誰に仕えた?

荊州牧の劉表に仕え、江夏太守として長くその支配を支えました。

黄祖にまつわるエピソードは?

初平三年(192年)、部将呂公の伏兵により孫堅を戦死させたことが特に知られています。

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