【1分でわかる】楊竺:死の直前に陸遜を陥れた呉の奸臣【徹底解説】

楊竺

1分でわかる忙しい人のための楊竺の紹介

楊竺(ようじく)、字は不詳、出身は広陵、生没年(3世紀~245年)

楊竺は三国時代の呉に仕えた人物である。史書には官職の記録は残っていないが、若年のころから名声を得ていた。しかし、陸遜からは「必ず身を滅ぼす」と予見されており、その言葉通り非業の最期を迎えることとなった。

赤烏八年(245年)、呉の皇子孫覇が寵愛を受けて、楊竺は全寄・呉安・孫奇らとともに孫覇を支持し、太子孫和と対立する。 彼らは孫和を誹謗し、孫権を惑わせた。さらに太子太傅吾粲を誣告し、孫権に処刑させるなど、党争の激化に深く関わった。
その後、孫権と楊竺との密談が漏れた疑いで、陸胤とともに捕らえられた。拷問に耐えきれず楊竺は自白し処刑された。 死の直前、楊竺は陸遜の二十条の罪を訴え、これが陸遜を憤死へと追い込む事件の要因となった。
赤烏十三年(250年)、孫覇が誅殺されると、その党羽はことごとく粛清され、楊竺の遺体も江に流された。兄の楊穆は幾度も諫言していたことから死を免れ、南州に流罪となった。楊竺は南魯党争の中で運命を誤り、歴史においては敗者として記録される存在である。

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楊竺を徹底解説!孫覇党として二宮の変(南魯党争)に加担し、最後は処刑される

若き日の評価と一族への忠告

楊竺は若い頃から広陵において名声を得ていた。しかし、呉の重臣陸遜は彼を見て「この人物は必ず身を滅ぼす」と断じていた。陸遜は楊竺の兄である楊穆に対しても「楊竺と運命を共にすべきではない、新たに家を立てよ」と忠告している。 弟に連座して一族が共に沈むのを防ぐためである。

この忠告を受けた楊穆は、実際に弟をたびたび諫めたという理由で死罪を免れ、流罪にとどまった。彼を見抜いた陸遜の洞察が、一族の生死を分けたのだった。

二宮の変と孫覇への加担

赤烏八年(245年)正月、呉の皇子孫覇は孫権から厚く寵愛され、次第に皇太子孫和と対立するようになった。
このとき楊竺は全寄・呉安・孫奇らと共に孫覇に与し、皇太子を誹謗して孫権の判断を惑わせた。これが後に「二宮の変」と呼ばれる政変の発端である。

太子太傅の吾粲は、皇太子を守る立場から孫覇を夏口へ出鎮させるべしと提案した。さらに武昌の丞相陸遜と連携し、繰り返し諫めた。嫡庶の区分を正し、国を安定させるためだった。
だが、正論ほど権力者にとって耳障りなものはない。孫覇と楊竺は逆に吾粲を誣告し、孫権はこれを信じて激怒し、吾粲を捕らえて処刑した。

こうして「二宮の変」は激化する。楊竺はただの党派の一員ではなかった。正義を口にする者を陥れ、血を流させた張本人である。
彼の手は、この時すでに取り返しのつかない血で汚れていた。

孫霸の才、密談を砕く沈黙と疑惑

ある日、孫権は楊竺を呼び出し、息子・孫霸の才について密談をした。 孫霸の文武兼備ぶりに感嘆し、正式に後継者に据えるべきか迷うがどう思う?という話を口にする。

それを聞いた楊竺はさらに踏み込んだ。「孫霸は文武に優れ、王の正統な後継者にふさわしいでしょう。」 しかし、その声は必要以上に熱を帯びてしまい、孫権もつい「立てよう」と半ば呟くように承諾してしまう。

ところが、その場に給使(召使い)が寝台の下に潜んでおり、密談を盗み聞きして孫和に伝えた。 そんな時、陸遜の一族の尚書郎の陸胤が、武昌に公務へ行くため、別れのあいさつに来た。 孫和はこっそり陸胤の車に乗り込み、「陸遜に孫覇の立太子に反対するよう上奏させてほしい」と密談する。

陸遜が実際に上表して強く劉承の立挙を進言したことで、孫権は楊竺が俺の言葉を漏らしたののではないかと疑った。 もちろん、心当たりのない楊竺は即否認する。じゃあ、誰がこの話を漏らしたのだと楊竺に調査を命じた。

楊竺は「西へ渡ったのは陸胤だけです。彼が全てを漏らしたのでしょう」と報告する。 孫権が改めて陸遜に問いただすと、陸遜は「陸胤から聞いた」と答え、疑いは陸胤に集まることとなった。

陸胤との連座と拷問死

しかし陸胤は太子を守るため、真実を明かすわけにはいかない。
彼は「楊竺が自分に漏らした」と証言した。
その一言で、楊竺と陸胤は揃って牢に投げ込まれ、厳しい取り調べを受けることになった。

拷問は容赦なく続いた。楊竺は痛みに耐えきれず、「確かに自分が話した」と自白してしまう。
孫権は「やはりそうか」と信じ込み、楊竺を処刑する決断を下した。
一方で陸胤は、最後まで沈黙を守り通し、やがて無罪とされて釈放された。

もり、楊竺は仲間の密告に潰されたのではない。太子を守ろうとした陸胤の沈黙の作戦に、巻き込まれてしまったのだ。
命を落とす者と、釈放される者。その差は、ほんの一言の証言にすぎなかった。

陸遜の死と楊竺の供述

楊竺は死を前にして、「陸遜には二十の罪がある」と供述したのである。
その告発は恨みを晴らすものだったのか知る由もないが、陸遜にとって致命的な供述だった。

この供述を受けた孫権は、幾度も中使を遣わして陸遜を責め立てた。
「お前には、かくも多くの罪があるではないか」。
名将として呉を支え続けた陸遜も、繰り返される詰問に心を病み、憤りを抱えたまま命を落とした。

その後を継いだのは子の陸抗である。建武校尉に任じられ、父の兵を受け継ぎ、葬送を務めた。
だが孫権は陸抗に対しても警戒を解かず、中使を派遣して賓客を禁じさせたうえ、改めて楊竺が残した「二十の罪」を一つひとつ問いただした。

陸抗は落ち着いて答えた。条理を尽くし、事実を積み上げ、父を弁護した。
その明晰な反駁に、孫権の疑念はようやく和らぎ、怒りも鎮まった。

楊竺の最期の言葉は、陸遜の死を招き、陸抗を窮地に追いやった。
死者の舌は刃よりも鋭く、生者を切り裂く。楊竺の供述は、まさにその証であった。

二宮の変の終結と楊竺の屍辱

赤烏十三年(250年)、ついに二宮の変は終局を迎えた。
孫権は皇太子孫和を庶人に降格し、かつて寵愛した孫覇には自害を命じ、兄弟の争いは、父の決断によってようやく決着したのである。

だが粛清の刃はそこで止まらなかった。孫覇の党羽であった全寄、呉安、孫奇は次々に誅殺された。すでに処刑されていた楊竺も例外ではなく、その屍は川へと流され、死してなお辱めを受けることとなった。

一方で、兄の楊穆は命をつなぐことができた。彼はかねてより弟をたびたび諫めていたため、その忠告が評価され、死罪を免れて南州への流罪にとどまった。
しかし皮肉なことに、他人の破滅を見抜いた陸遜自身は、楊竺の供述によって孫権に疑われ、憤死に追い込まれるという自らの破滅を予見できなかった。

史家の評価と批判

二宮の変において、楊竺の行動は失敗の代名詞のように語られる。
しかし彼ひとりが特異だったわけではない。呉の名臣と称された歩騭でさえも孫覇に与していた。
名声をもって人を導くはずの者が、権力の流れに呑まれてしまったのである。

南朝宋の史家・裴松之はこの事実に疑問を投げかけた。
「歩騭は徳望ある良臣と称えられたのに、なぜ楊竺のように孫覇を阿附したのか。」
これはただの批判ではなく、時代そのもの(晩年の孫権)への失望の声であった。

つまり楊竺の失敗は、彼一人の責任ではなく、そもそも孫権が悪いと思う。

参考文献

楊竺のFAQ

楊竺の字(あざな)は?

楊竺の字は史書に記録がなく、不詳です。

楊竺はどんな人物?

若くして名声を得ましたが、性格的には権力争いに深入りする傾向があり、陸遜に「必ず身を滅ぼす」と予見されていました。

楊竺の最後はどうなった?

赤烏八年(245年)、孫権との密談を漏らした疑いで捕らえられ、拷問に耐えられず自白し、処刑されました。その後、屍を江に流されました。

楊竺は誰に仕えた?

呉の孫権に仕えていました。史書には具体的な官職名は記されていません。

楊竺にまつわるエピソードは?

処刑前に陸遜の二十条の罪を告発し、これが孫権の叱責を招き、陸遜が憤死する要因となりました。

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