1分でわかる忙しい人のための丁原の紹介
丁原(ていげん)、字は建陽(けんよう)、出身は揚州廬江安豊、生没年(140年?~189年)
出自は貧しい家柄だったが、若くして文才を認められ、やがて武勇を買われて地方官に登用された。
并州刺史に任じられると、避乱民や敗残兵をまとめて勢力を築き、呂布・張楊・張遼ら後に名を成す将を配下とした。
やがて宦官討伐の計画に加わり、執金吾として洛陽に入るが、董卓が権力を握ると部下の呂布に裏切られて斬殺された。
その生涯は、後漢末の動乱期における忠勇と非業の象徴ともいえる。
丁原を徹底解説!西園軍と何進と通じて執金吾まで昇進するが、董卓に謀殺された并州の群雄
出自と并州での台頭
丁原は貧しい家に生まれたが、若い頃から文章に通じていたため、地方官として登用された。南県の官吏となった際には、盗賊の襲撃に対し自ら先頭に立って追撃し、その勇敢さを示した。
中平五年(188年)、并州で休屠胡の反乱が起きた。鎮圧に向かった并州刺史・張懿は討ち取られ、兵は散り散りとなった。ここで後任に押し出されたのが丁原だった。
着任後、彼は乱を避けて北方から移住してきた残兵や住民を収容し、自軍を再編して兵力を整えた。 やがて丁原は騎都尉、武猛都尉に昇進し、河内に駐屯するようになる。この頃、彼のもとに集まった部下には、後に歴史を揺るがす名前が並ぶ。呂布、張楊、張遼といった、後世に語られる武将たちが、この時点ではまだ一地方官の配下に過ぎなかった。
西園軍と宦官討伐計画
中平五年(188年)八月、漢の霊帝は詔書を下し、諸州郡に兵士を募らせて西園軍という新組織した。同時に、大将軍の何進も府令をもって同様の兵士募集を命じた。
丁原はこれに応じ、まず武猛従事の張楊を京に派遣して上軍校尉の蹇碩に拝謁させた。張楊は蹇碩により上軍の仮司馬に任命された。
その後、張楊は西園軍の内情を探り、袁紹を中心とする六名の校尉(蹇碩・鮑鴻を除く)が、ひそかに何進と結びつき、宦官を討つ計画を立てていることを知った。
これを受けて丁原はさらに従事の張遼を派遣し、大将軍何進に拝謁させた。張遼は兵曹掾吏に任じられ、大将軍府に仕えることとなった。
このようにして丁原は、張楊と張遼を通じて西園軍と大将軍府の双方に食い込み、袁紹や何進らと連携して宦官討伐の密謀に関与するようになったのである。
執金吾就任と洛陽での活動
中平六年(189年)、漢霊帝が崩じると、洛陽では大将軍何進が宦官誅殺を計画した。丁原も呼応し、孟津に火を放ち、その炎は城中にまで映えたという。しかし、何皇后が宦官誅殺に反対したため、計画は頓挫してしまう。
地方で鍛えた兵と人材を抱えたまま、やがて彼は執金吾に任じられ、洛陽の治安を担う立場に進んだ。外様である丁原にとって、都の権力闘争は馴染みのない舞台であった。それでも兵力を背景に存在感を示したが、そのことがかえって董卓の警戒と策謀を招くこととなる。
董卓の台頭と呂布による最期
中平六年(189年)、都は血に染まった。大将軍・何進が宦官に殺されると、関中の董卓が「これはチャンス」とばかりに兵を率いて洛陽へやってくる。
そのころ、執金吾の丁原は都におり、ちゃんと兵も持っていた。つまり、董卓にとっては「目障りな先客」だった。どう処理するかと考えたとき、目に留まったのが、丁原の腹心・呂布である。
董卓は呂布に声をかけ、地位をやろう、金もやろう、なんでもやろう、と誘い込みをかける。 呂布はあっさり裏切って、主君・丁原を斬ってしまう。
こうして丁原は董卓の野心の犠牲となり、勢力は呂布ごと董卓の手に吸収された。短いながらも勇猛果敢に戦った地方豪族の生涯は、都の権力闘争の中で幕を閉じることになったのである。
参考文献
- 参考URL:丁原 – Wikipedia
- 三國志・魏書七・呂布伝 中國哲學書電子化計劃
- 三國志・魏書八・張楊伝 中國哲學書電子化計劃
- 三國志・魏書十七・張遼伝 中國哲學書電子化計劃
- 後漢書・列伝・竇何列伝 中國哲學書電子化計劃
- 後漢書・列伝・劉虞公孫瓚陶謙列伝 中國哲學書電子化計劃
- 後漢書・列伝・董卓列伝 中國哲學書電子化計劃
FAQ
丁原の字(あざな)は?
丁原の字は建陽(けんよう)です。
丁原はどんな人物?
勇猛で遠謀を持ち、并州で勢力を築いた人物です。呂布や張遼など配下にしてました。
丁原の最後はどうなった?
189年、董卓にそそのかされた呂布に裏切られ、斬殺されました。
丁原は誰に仕えた?
大将軍何進の指揮に従い、後漢朝廷に仕えました。
丁原にまつわるエピソードは?
宦官討伐をめぐり、孟津に火を放って洛陽の城中を震撼させたことで知られています。
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