1分でわかる忙しい人のための張楊の紹介
張楊(ちょうよう)、字は稚叔(ちしゅく)、出身は并州雲中、生没年(?~198年)
張楊は後漢末の動乱期に河内郡を拠点とした群雄である。若い頃から武勇で知られ、武猛従事や蹇碩配下の西園軍に参加して頭角を現した。
やがて董卓討伐戦に加わるが、成果を得られず独自に勢力を拡大。匈奴単于に一時拉致されながらも解放され、兵を率いて河内に拠点を構えた。
興平二年(195年)には董承と共に漢献帝を護送し、糧食を提供して安国将軍に任じられた。さらに洛陽復興に協力し、完成した宮殿を「楊安殿」と名付けるなど、皇帝に直接関わる存在として名を残した。
呂布を庇護するなど旧知との義理を重んじた一方、最期は呂布を援助しようとした際に部下の楊醜に裏切られ非業の死を遂げた。
張楊は忠義と豪胆を備えながらも、時代の権力争いに翻弄され、最後は群雄としての野心を果たせなかった悲劇の人物である。
張楊を徹底解説!漢献帝に協力し、大司馬まで上り詰めるが、部下に裏切られた最期
武勇をもって仕官、初期の軍歴
張楊は并州雲中の出身で、若いころから武勇で名を知られた人物であった。その評価を受け、まずは武猛従事という地方軍事を担当する役職に就き、官途に足を踏み出した。
やがて後漢末、霊帝が「西園軍」なる禁軍を組織すると、并州刺史の丁原が張楊を推挙し、彼は上軍校尉・蹇碩の配下に配属された。蹇碩は気に入ったらしく、張楊に「假司馬(とりあえず司馬)」の称号を与えた。これは正式な官職ではないものの、軍を指揮する立場であり、将来を嘱望されていたことがうかがえる。
ちなみに、西園軍は蹇碩、曹操や袁紹が任命されていた西園八校尉が中核を担っていた。 しかし、蹇碩が宮廷での権力闘争に巻き込まれ、あっさり退場。張楊は「これはいかん」と見切りをつけ、すぐに大将軍・何進に帰順して仕官を続けた。
その後、何進の命令により自ら募兵を行い、上党において千余の兵を率いて山賊討伐にあたった。
この山賊討伐は単なる軍功にとどまらず、張楊が自らの兵を直接掌握する契機となり、のちに独自の勢力を築いていく基盤となったのである。
董卓討伐と匈奴との関わり
董卓が洛陽で権力を握ると、諸将はこれを討伐するため挙兵した。張楊もその一人で、とりあえず上党太守を壺関で攻めてみたものの、戦果ゼロで撤収した。
それでも張楊はあきらめなかった。上党に居座って周辺の県を次々に押さえ込み、気づけば数千の兵を抱える勢力へと成長していた。 『三国志』常林伝によれば、その過程で被害を受けたのは地元の有力豪族であったとされる。
地元の豪族たちから見れば「また余計な迷惑をかける奴が増えた」としか映らなかっただろう。
やがて董卓討伐軍が結成されると、張楊は袁紹の陣営に身を寄せた。しかし袁紹は張楊を積極的に用いず、彼の立場は曖昧なままであった。
初平二年(191年)、匈奴の単于・于夫羅が後漢への叛乱を企てた際、張楊は袁紹とともにこれに従わず拒絶したが、張楊は人質同然に連れ去られてしまう。断固拒否したはずが、結局は強引に同行させられたのである。
その後、于夫羅は袁紹の将軍・麹義に敗れたものの、再び反撃して度遼将軍・耿祉を破る。
帰りがけに張楊はと解放されている。助かったのか、忘れられたのか、今となっては不明である。
河内を拠点に、漢献帝護送と洛陽復興に尽力
張楊の名が歴史に刻まれるのは、やはり漢献帝との関わりだろう。
董卓の時代、張楊は建義将軍・河内太守に任じられた。
その後、董卓が死ぬと、興平二年(195年)、李傕の追撃から逃れ、董承に連れられて逃げてきた漢献帝を、大陽でこれを迎え入れ、兵糧を提供する。
この功績によって安国将軍・晋陽侯に封じられ、節を与えられ開府するなど、重い地位を得るに至った。
建安元年(196年)、再び董承とともに漢献帝を洛陽へ迎えようとするが、楊奉、李楽に拒絶される。
董承は張楊のもとへ身を寄せ、張楊は彼に命じて洛陽の宮殿を大々的に修復させ、献帝を迎える準備を整える。 夏、献帝は楊奉らに洛陽への護送を命じ、秋に献帝が洛陽へ戻り、張楊は食糧を携えて道中で出迎えた。 完成した殿を「楊安殿」と名付けるあたり、功績をしっかりアピールしている。
しかし権力闘争が激しい洛陽には留まらず、河内の野王へ帰還する。
その後、大司馬に任じられたが、中央権力からは距離を置き続けた。
呂布との交誼と庇護
張楊は呂布ともともと親しい間柄であった。
初平三年(192年)、呂布が袁術のもとを飛び出したとき、迷わず受け入れたのが張楊である。ただ、李傕らの追っ手に脅える呂布は、すぐに袁紹の陣営へ逃げてしまう。
初平四年(193年)、呂布は懲りずに張楊のもとへ舞い戻ってくる。
しかし翌年の興平元年(194年)、張楊の部下の多くが李傕らに買収されると、呂布は張楊の態度を探るように迫った。表面上、張楊は呂布を売ることを認めたものの、実際には庇護を与え、潁川太守の地位に任じて保護した。
しかし、それでも呂布は張楊のもとに腰を落ち着けることはなく、やがて張邈のもとに身を寄せることとなった。張楊の庇護も友情も、呂布の漂泊を止めるには至らなかった。
最期と部下の裏切り
建安三年(198年)、張楊はかつての旧友である呂布を救うため、曹操との戦に援軍を送ろうとした。
しかしその矢先、部下の楊醜が裏切り、張楊を殺害した。楊醜は曹操に投降したが、すぐに眭固に討たれてしまう。
張楊の死後、長史の薛洪や河内太守の繆尚らは一時抗戦を試みたが、董昭に説得されて曹操に降伏した。こうして張楊の勢力は短期間のうちに瓦解し、彼の築いた河内の拠点も曹操の手に収まった。
結局、張楊の最期は、外敵の刃ではなく、身近な部下の裏切りによってもたらされたのである。
乱世を生き抜くには剛勇だけでは足りず、人心をつなぎ止める力こそが必要だったのかもしれない。
参考文献
- 参考URL:張楊 – Wikipedia
- 《三国志・魏書七》
- 《三国志・魏書八》
- 《三国志・魏書十四》
- 《三國志・魏書十三》
- 《資治通鑑·漢紀五十二~五十四》
FAQ
張楊の字(あざな)は?
字は稚叔(ちしゅく)です。
張楊はどんな人物?
勇猛で人望がありましたが、政治的な駆け引きには長けず、部下に裏切られる不運な人物でした。
張楊の最後はどうなった?
建安三年(198年)、曹操を援助しようとして部下楊醜に殺されました。
張楊は誰に仕えた?
蹇碩・何進・董卓を経て、最終的には独自に勢力を築きました。
張楊にまつわるエピソードは?
洛陽宮殿の復興に協力し、完成した宮殿を「楊安殿」と名付けたことで知られています。
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