【1分でわかる】種劭:董卓を退け、郭汜で散った忠臣の最後【徹底解説】

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1分でわかる忙しい人のための種劭(种劭)の紹介

種劭(种劭)(しゅしゅう)、字は申甫(しんぽ)、出身は河南洛陽、生没年(?~194年)
後漢末期の混乱の中に現れた忠義の士であり、大司農・種暠の孫、太常・種拂の子として生まれた。若くして名声を博し、朝廷に仕えて諫議大夫・侍中を歴任した。
大将軍何進が宦官討伐を計画し、董卓を洛陽に召喚するが、種劭は澠池で董卓に勅命を奉じて退軍を説得。董卓が兵を率いて脅迫する場面でも毅然と詔を読み上げ、結果的に董卓を夕陽亭まで退かせることに成功した。
その後、漢献帝が即位すると侍中に任じられたが、董卓の専横により議郎へ降格され、益州・涼州刺史に任じられた。董卓の死後、李傕・郭汜が朝廷を掌握し、長安を攻めた際、父・種拂が戦死する。
興平元年(194年)、馬騰・韓遂ら西涼の群雄と連携し、郭汜・李傕打倒を図るが、長平観の戦いで敗北。種劭は同志と共に戦死し、忠義を貫いた生涯を閉じた。

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種劭(种劭)を徹底解説!忠義を尽くした生涯

董卓を退けた澠池での決断

中平六年(189年)、後漢は腐った宦官の臭気にむせ返っており、大将軍何進は宦官勢力の掃除を思い立つが、呼んだのはよりによって董卓で火に油を注ぐどころか、火薬庫に松明を投げ込むような采配だった。
董卓は兵を率い、澠池までやって来る。そこで差し止め役を任されたのが種劭である。軍門に出向いた彼は、まずは丁寧に労いの言葉をかけ、すかさず勅命「洛陽に入るな、兵を退け」を突き付けた。董卓は当然のように拒み、兵に囲ませて威嚇する。普通の役人なら震えあがって命乞いをする場面だ。
しかし種劭は怒声を放ち、官命を堂々と読み上げる。兵士たちはその剣幕に押されて後ずさりし、董卓自身も反論の余地なく、しぶしぶ夕陽亭まで退いた。強者の前にすくむどころか、逆に押し返してしまう胆力。ここにひとりの剛直な士がいた。後に董卓が権力を握り暴君と化す前夜、洛陽でほんの一瞬だけ人々は「朝廷にまだ骨のある男がいる」と胸を撫で下ろしたのである。

父の死と朝廷復帰の拒絶

漢献帝即位後、種劭は侍中に任じられたが、董卓が専権を握ると、すぐさま議郎に降格され、さらに益州・涼州の刺史へと左遷された。権力者に気に入られない人間の典型的コースだ。
その後、董卓が王允と呂布の謀略で殺されると、李傕と郭汜が台頭し、長安を蹂躙する。その渦中で父・種拂が討伐戦に身を投じ、命を落とした。
父の死を受け、種劭は喪に服し、その後朝廷から少府・大鴻臚として召されるも「父は国に殉じたのに、臣子である自分が仇を討てていない。何の面目があって明主に仕えられるのか」と固辞。忠孝の念を最後まで貫いた姿が記録に残る。

郭汜軍との戦い:長平観での最期

興平元年(194年)、種劭は志を同じくする馬騰・韓遂、諫議大夫・馬宇、左中郎将・劉範、中郎將・杜稟らと連携し、李傕・郭汜討伐を決意。自らは内応を務める形で挙兵した。
しかし謀略が漏れ、郭汜軍と長平観(長安付近の要塞的な施設)で激突。種劭らは奮戦するも敗北し、槐里に退いたのち、郭汜の軍に攻め込まれて戦死を遂げた。
こうして種劭は父と同じく、国の乱世に殉じて命を落とした。彼の最後は無念ではあったが、その忠義は「暴政に屈せず、身をもって正義を示した者」として、史書に強い印象を残している。

参考文献

FAQ

種劭の字(あざな)は?

種劭の字は申甫(しんぽ)です。

種劭はどんな人物?

種劭は忠義心に厚く、董卓に脅されても屈せず、父の仇を討つために奔走した剛直な人物です。

種劭の最後はどうなった?

興平元年(194年)、馬騰・韓遂らと共に李傕・郭汜を討とうとしたが、長平観の戦いで敗れて戦死しました。

種劭は誰に仕えた?

後漢末期の朝廷に仕え、漢献帝のもとでも侍中・議郎を務めました。

種劭にまつわるエピソードは?

董卓に軍勢をもって脅されながらも勅命を堂々と読み上げ、退軍させた逸話が最も有名です。

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