【1分でわかる】賈南風:太子を廃し皇族の争乱を招いた西晋皇后【徹底解説】

賈南風

1分でわかる忙しい人のための賈南風の紹介

賈南風(かなんふう)、字は南風(なんぷう)、出身は平陽郡襄陵県、生没年(257~300年)
実際の名前は旹だが、一般的に賈南風で通じるので、この記事では賈南風で表記する。 賈南風は、西晋第2代皇帝・晋惠帝の皇后。父は賈充、政略結婚により太子妃となり、夫の愚鈍ぶりに乗じて実権を握った。 楊駿をはじめとする外戚勢力を討ち滅ぼし、皇太后・楊芷を餓死させるなど、徹底した権力掌握を遂げる。 以後、族兄賈模や名士張華、裴頠らを用いて朝政を運営し、十年余の間、西晋朝を一定の安定へと導いた。 だがその裏では、皇帝の寵妃を流産させ、太子・司馬遹を廃し毒殺するなど、私情に基づく非道な粛清を繰り返した。 名声ある太子の死をきっかけに民衆の怨嗟が高まり、趙王司馬倫が挙兵。賈南風は捕らえられ毒殺される。 凶悪な悪女か、有能な実力者か。その評価は今も歴史の中で揺れ続けている。

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賈南風を徹底解説!次々と政敵を葬り、嫉妬に燃えた悪女の素顔

太子妃選びの裏側:賈南風が選ばれた意外な理由

泰始六年(270年)、朝廷は陳惶を使者として派遣し、賈南風を太子妃候補として聘(仮の儀式)することにした。だがこの人選、賈家にとっても当初の予定とは異なる展開だった。本来、賈充は末娘を太子に嫁がせるつもりだったが、あまりに幼く背も低かったため、急遽、三女の賈南風が代理として選ばれることになる。

しかしこの縁談、晋武帝・司馬炎は強く反対した。理由は明白で、「黒くて醜く、気が荒く嫉妬深い者は太子妃にふさわしくない」と判断したためである。だが皇后・楊艷と側近・荀勖の熱心な推挙があり、最終的には折れて受け入れることになった。そして、泰始八年(272年)、正式に太子妃として冊立される。

この婚姻の背後には、切実な事情も潜んでいた。泰始七年(271年)、賈充は長安へ出鎮の命を受けそうになった。これに危機感を抱いた彼に対し、荀勖が進言する。「まだ太子は妃を迎えていない。娘を嫁がせれば、出鎮は回避できるかもしれない」と。賈充はこの策に乗り、政略結婚を進めたことで、中央政権への足場を確保する。

司馬衷の答案事件の策略

晋武帝・司馬炎はかねてから、太子・司馬衷の愚鈍ぶりに疑念を抱いていた。そこである宴席の場で、太子とその側近を集め、突然問題を出す。まさに公開テストである。このときの賈南風はその瞬間に確信していた。「こいつは絶対に答えられない」と。

案の定、太子の脳内は真っ白。とはいえ、臣下たちは全員宴席に張りついていて、助け舟も出せない。賈妃はあまりの焦りに、門の外まで人を探しに出す。何名かの知識人を連れてきたが、彼らの答案は引用だらけで不自然だった。そこに現れたのが張泓で助言する。 「太子が本当に書いたように、素直な言葉で答えた方が自然に見えます」

賈妃はこれに賭けた。張泓が文案を練り、それを司馬衷に模写させる。見た目は本人が苦心して書いたような内容で、司馬炎はそれを見て満足し、「思ったよりよくやったじゃないか」と感心したという。さらに、太子少傅の衛瓘にも答案を回して評価を仰いでいる。

彼女の政治的嗅覚と、その場を乗り切る即応力はすでに確かなものがあった。

側室たちの地獄:賈南風の暴力と嫉妬

司馬衷は基本的に賈南風を恐れていた。というのも、このか彼女の嫉妬は殺意レベルで、ただの「嫉妬深い」では済まされない。 賈南風にとって、後宮は愛を育む場ではなく、敵を排除する戦場だった。司馬衷の側室たちに、妊娠が発覚すれば腹を戟で突いて流産させるという、想像を絶する手段に出ていたからである

武帝・司馬炎もこの事実を知り、激怒した。娘にまで手をかける彼女を廃して幽閉しようと真剣に考えた。だが、その暴走を止めたのが、側近たちの懇願だった。充華・趙粲、楊皇后(司馬炎の正妻)、楊珧などがこぞって賈南風を弁護し、最終的には荀勖らの政治的根回しで、廃妃案は立ち消えになる。

つまり、賈南風はそれを正当化する環境と人脈を持っていた。彼女の暴力は、皇后という立場の裏にあるネットワークによって黙認され、時に利用すらされていた。 こうして、側室たちは声も出せずに血の海に沈み、賈南風はその血を踏みしめながら、さらなる権力の階段を上っていった。

皇后即位と楊太后への怨恨

永熙元年(290年)、司馬衷が皇帝に即位すると、賈南風は正式に皇后となった。皇后となった賈南風は、かつて自らの廃妃危機の際に助け舟を出した楊太后に対して、恩を感じるどころか、むしろ深い怨みを抱いていた。賈南風は、楊太后こそが当時、自分を中傷し、司馬炎に廃妃を進言したと信じて疑わなかったのである。

そのため、楊太后に対しては一切の敬意を払わず、むしろ冷遇し、積極的に政務への関与を試みるようになった。だが、ここで大きな壁となったのが、楊太后の親族であり政権中枢を握る太傅・楊駿である。楊駿は皇后の政務介入に強く反対し、権力を封じようとした。

楊駿誅殺計画と権力掌握

賈南風は、障壁となる楊駿の排除を画策する。手を組んだのは殿中中郎の孟観や李肇、寺人監の董猛といった宦官勢力。さらに彼女は皇族内部の不満分子、汝南王司馬亮と楚王司馬瑋とも密かに接触し、共に楊駿打倒の旗を掲げた。

ついに永熙二年(291年)、賈南風は偽の詔勅を用い「楊駿が謀反を企てた」との罪状をでっち上げる。詔に従って東安公司馬繇が400人を率い、楚王司馬瑋は入朝の名目で兵を率いて洛陽に入り、司馬門を占拠し楊駿邸を急襲して、楊駿は自邸で殺害される。その親族も含めて三族皆殺しとなった。

その上で、賈南風は楊太后が「救太傅者有賞」と布帛に記していたことを理由に、太后も反逆に加担していたと断定。偽詔で庶人に落とし、自身がかつて囚われかけた金墉城へ幽閉させる。翌292年、楊太后はその城内で餓死した。

こうして、賈南風は私怨を装った政変で、最大派閥だった楊氏一族を粛清。後宮の陰湿な怨恨は、ついに帝国全体の権力地図を塗り替える大事件へと発展した。

政敵一掃と安定政権の確立:張華との十年

楊氏一族を粛清した賈南風は、朝廷の要職に有力者を次々と任命し、新たな体制を整える。 太宰には司馬亮、太保には衛瓘、衛将軍には楚王司馬瑋、尚書左僕射には司馬繇が就任し、表面上は皇族と官僚が協調する政治体制が築かれた。

だが、実際の政務は賈南風とその側近たちが掌握していた。賈模、郭彰、賈謐、司馬瑋、司馬繇らが日常的に国政に干渉し、権力闘争はすぐに再燃する。 暴虐を強める賈南風に危機感を抱いた司馬繇は彼女の廃位を画策するが、これを察知した司馬亮が逆に司馬繇を弾劾し、流罪に処す。

次に火花を散らしたのは司馬亮と司馬瑋である。両者の不仲を利用し、賈南風は一度二人を罷免。 司馬瑋は詔を受けて司馬亮と衛瓘(捕縛したのは清河王・司馬遐)を誅殺し、賈南風の権力はさらに強まる。 しかし、その矯詔こそが命取りとなる。太子少傅の張華は董猛を通じて賈南風に進言し、「矯詔を使った司馬瑋こそが反逆者」と訴える。賈南風はこれに従い、司馬瑋もすぐに誅殺された。クーデターのインフレ状態である。

こうして皇族・官僚問わず有力者を粛清した賈南風は、事実上の最高権力者となる。そして彼女は、自らの親族である賈模を重用し、張華を侍中・中書監、裴頠を侍中に抜擢。朝政はこの三人によって執行され、賈南風はその頂点に君臨する形となった。

興味深いのは、この粛清中の約十年間、外征もなく、民衆の反乱も起きず、政局は比較的安定していた点である。張華と裴頠はともに優れた人材であり、政策面では一定の成果を上げていた。賈南風の名は後世で暴虐の象徴として語られるが、彼女の時代が西晋で最も安定した時期の一つだったという歴史的評価も見逃せない。

太子廃立へ:実子がいない賈南風の冷酷な陰謀

賈南風には実子がいなかった。母の郭槐は何度も「太子を我が子と思って慈しむように」と諫め、臨終の際にも涙ながらに託す。しかし賈南風の胸にその言葉は届かない。彼女の心にあったのは、司馬遹が自分の地位を脅かす存在に成長するという猜疑心だけだった。

元康九年(299年)、賈南風は大胆な策に打って出る。自らがかつて極秘に男子を出産したと偽り、その子として妹の夫・韓壽の子を引き合わせ、「韓慰祖」と名乗らせて太子に据えようとした。これに先立ち、司馬遹を謀反人に仕立てる計画が練られる。

彼女は司馬遹を酒で酩酊させ、支離滅裂な文書を書かせた上で、それにさらに筆を加えて「反逆の証拠」に仕立て上げた。書面には「中宮を殺す」「皇帝を退ける」といった物騒な文言が並び、最終的にこれを以て太子は廃され、金墉城に幽閉される。その母である謝玖や、子の司馬虨の生母である蔣俊も、連座で殺された。

事態を目の当たりにした司馬遹の岳父・王衍は、連座を恐れ、司馬遹と王衍の娘・王惠風との離縁を上奏する。王惠風は父の命に従って泣きながら宮を去った。賈南風の冷酷な陰謀は、家族の絆すら断ち切っていった。

民衆の怒りと趙王司馬倫の策謀

300年、太子・司馬遹の廃位と幽閉は、朝廷内外に激しい波紋を広げた。彼は聡明で人望もあり、次代を担う存在として多くの支持を集めていたため、あからさまな冤罪と処罰に対し、民衆も貴族たちも怒りを募らせていた。

この空気を読み取ったのが趙王・司馬倫とその腹心・孫秀である。彼らは太子を支持する声を「賈后打倒」の口実として利用し、クーデターの準備を進めていく。孫秀は宮中に「復位を計画する動きがある」との偽情報を流し、賈南風に恐怖心を植え付けた。

焦った賈南風は、「このままでは太子が復権する」と判断し、ついに殺害を決意。太医令の程據に毒を託すが失敗し、次に黄門の孫慮を差し向ける。孫慮は毒を拒んだ司馬遹を薬杵で撲殺した。幽閉から1年後の惨殺であった。

これが決定的な導火線となり、司馬倫は堂々と「太子を殺した賈后を討つ」と掲げて兵を挙げる。民意と政治的正当性を手にした彼は、一気に政権を掌握する機会を得た。

政変と賈南風の失脚・最後

太子殺害から間もなく、趙王・司馬倫はついに兵を動かす。孫秀が準備した偽の詔書を使って「太子を殺した賈后は国家の敵」と断じ、正義の名の下にクーデターを決行した。

司馬倫は賈南風の最側近だった賈謐を真っ先に殺害し、自身の息がかかった斉王・司馬冏を動かして賈南風を捕縛。彼女は金墉城へと護送され、皇后の位を剥奪された上で庶人に落とされた。

ここで司馬倫は手を緩めなかった。賈南風の側近だった趙粲、賈午、程據らを一斉に捕らえ処刑。さらに彼は、政務を支えてきた張華や裴頠といった有能な官僚たちまでも殺し、自らの独裁体制を築くための障害を徹底的に排除していく。

そして最後に、金屑を混ぜた毒酒が賈南風に届けられた。彼女は逃れられぬ最期を迎え、金墉城にて毒殺される。享年四十五歳。皇后としての在位はわずか十年だったが、その権勢は皇帝を凌駕するものだった。

賈南風の評価:悪女か、有能な政権者か

賈南風は史書において「嫉妬深く、黒く醜い暴君」として描かれる。懐妊した側室を自らの手で流産させ、政敵を次々に粛清し、さらには太子を廃して殺害に追い込んだ残酷さは、確かに後宮乱政の典型であった。『晋書』は彼女を「短黒にして酷妒」と断じ、その逸話には私通や美少年虐待なども加えられている。

その暴虐ぶりは、身内ですら看過できなかった。親族の賈模は幾度も賈南風に諫言し、さらには推翻すら考えたと伝えられる。皇后の暴走を止めるために一族が動いた事実は、彼女がどれほど恐れられ、危険視されていたかを物語る。

しかし一方で、彼女の治世は単なる混乱では終わらなかった。張華・裴頠・王戎といった当時の名士を登用し、政治を支えさせた結果、記録には「海内晏然」「朝野寧静」と評される安定期が残されている。彼女の苛烈な粛清が皇族の権力闘争を抑え、表面的には十年近い安定が維持されたことも事実である。

後を継いだ司馬倫が有能な臣下を次々に処刑し、わずか一年で政権を崩壊させたことを思えば、賈南風の十年間は偶然ではなく、一定の統治能力に裏打ちされたものであったといえる。

彼女の死とともに八王の乱が激化し、西晋が崩壊の道を転がり落ちていったことを思えば、彼女はまさに西晋の盛衰を体現した存在だったといえるだろう。

参考文献

FAQ

賈南風の字(あざな)は?

賈南風の字は南風(なんぷう)です。

賈南風はどんな人物?

晋政治手腕に長けていた一方で、地位を脅かされる存在を残虐な手段で消していきました。

賈南風の最後はどうなった?

西暦300年に司馬倫のクーデターで廃され、金屑入りの毒酒によって殺されました。

賈南風は誰に仕えた?

主に晋惠帝に仕えました。

賈南風にまつわるエピソードは?

酔わせた太子に支離滅裂な文書を書かせ、それを改ざんして廃位させるという陰謀が有名です。

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