1分でわかる忙しい人のための劉曄(りゅうよう)の紹介
劉曄(りゅうよう)、字は子揚(しよう)、出身は淮南郡成徳県、生没年(?~234年)
三国時代・曹魏に仕えた戦略家であり政治家である。後漢の光武帝劉秀の子である阜陵王劉延の後裔にあたる。幼少期から胆識と機略に優れ、十三歳で母の遺言を遂げて父の家臣を斬り、父に許されるという異才を示した。汝南の名士・許劭に「佐世の才あり」と評され、若くして曹操に見いだされた。
曹操・曹丕・曹叡の三代に仕え、幾度も先見の明をもって国の命運を支えた。特に漢中征伐や呉討伐の進言では、的確な情勢分析を示し、魏国の政策決定に深く関与した。死後は「景侯」と諡され、その洞察と知略は魏の知謀家として長く称えられている。
劉曄を徹底解説!曹操三代に仕えた魏の知謀家とその先見の生涯
幼少期の異才と母の遺言の遂行
劉曄は淮南郡成徳の名家に生まれた。光武帝・劉秀の流れを汲む名門の子で、父は劉普、母は脩。幼い頃から聡く、胆力に富み、ただ者ではなかったという。
七歳の時、母が病に倒れた。臨終の間際、母は枕元に劉曄を呼び寄せ、低く告げた。 「お前の父の近侍の一人は、心に邪を抱く者だ。成人したら、必ず取り除きなさい」 子供に言うにはあまりに重い遺言である。普通なら「うん」と言って、そのまま忘れてしまうだろうが、劉曄は違った。
十三歳になった劉曄は兄の劉渙に言った。 「母上の言葉を忘れてはいけない。今こそ果たすべき時だ。」 兄は驚き、「そんなことをするなど、父に顔向けできぬ」と止めた。 それでも劉曄は動じず、佩刀を手に家人のもとへ行き、母が指摘した男を斬った。 そして墓前に赴き、「母上のご遺言を果たしました」とだけ報告した。
家の者は騒ぎ、父・劉普も驚愕し、劉曄を探し出す。 だが彼は逃げずに戻り、「母の遺命に従いました。不敬の罪は覚悟しております」と膝をついた。 その姿を見た父はしばらく黙し、やがて胆力と誠に打たれ許したという。
のちに名士・許劭が劉曄を見て、「この少年には天下を支える器がある」と評した。 十三歳で家の癌を摘み取った少年に、その資質は確かにあった。
揚州の鄭宝討伐の奇策
劉曄が二十歳を越えた頃、天下の荒波が揚州へも及んだ。鄭宝・張多・許乾らの豪族が部曲を率いて割拠し、土地は騒乱の坩堝と化していた。特に鄭宝は腕っぷし・決断力・威圧感の三拍子そろった猛者で、民を脅して長江を渡らせ、江南へ移住させようという無茶な計画を掲げていた。
※この頃、魯粛宛に鄭宝に仕えるよう手紙を出しているが、時期があっておらず、それが劉曄かどうか怪しい。
鄭宝は、評判ある地元名門・劉曄を引き入れて、先導役に据えようと目論んだ。劉曄はどうしたものかとと思いつつも、武力では勝ち目がなく、機を見計らっていた。
ちょうどその頃、曹操が使者を揚州に送り込み、情勢を探らせていた。劉曄はその使者を歓待し、鄭宝の横暴を訴えたうえで、こう言った。「少し逗留していただけませんか。うまく片をつけてみせます。」 と、数日滞在してもらうよう便宜を図った。
数日後、鄭宝は牛と酒を供に数百の兵を引き連れて、使者を歓迎に劉曄宅に訪れた。 劉曄は兵を門外に並ばせ、酒食を振る舞い、巧みに鄭宝だけを屋内に誘い込んだ。宴の最中、劉曄は兵に「酒を回したとき、あの男を刺せ」と密命を下す。だが鄭宝も警戒し酒は飲まず、誰も動けず膠着状態になってしまう。
それを見た劉曄はためらわず佩刀を抜き一閃して鄭宝の首を斬り伏せた。そしてその場で首を掲げ、「これは曹公の命である。動けば汝も鄭宝と同罪」と声を張る。軍勢は驚き、狼狽し、逃げ散った。劉曄は鄭宝の馬に乗って陣を巡り、残る首領を次々と呼び出し、「次はお前か?」と迫った。最終的に兵たちは降伏し、「ならばこの男を主とせん」と彼を推戴した。
だが劉曄は「私は宗族の身。兵を持つことは本意にあらず」と言い、全軍を廬江太守・劉勳に引き渡した。 機を見て自ら動き、仕掛け、成果を他に譲る、この時点ですでに、ただ者ではなかった。
劉勳への進言と孫策の裏切り
廬江太守・劉勳は、江淮の地で武力も財力もあり「まぁまぁ強い地方豪族」として一目置かれる存在だった。
この存在感が、東方の若き虎・孫策を悩ませていた。 「仲良くするフリして、背中をぶん殴ればいいんじゃ?」という思考に至った彼は、作戦を発動。 丁重な使者を送り、財宝を添えて「上繚の民はかねてから我が国を侮っている。いま攻めれば我が援軍を出そう」と、低姿勢&金銀財宝で劉勳を釣りにかかった。 これにまんまと食いつき、珠玉や財宝を得た喜びから周囲も祝賀の声を上げご満悦。 部下たちも祝杯ムードで酒が進んでいたが、その場で一人だけ反対したのが劉曄だった。
劉勳は彼に問うと劉曄は冷静に反論した。 「上繚は小さいが、堅城と深池を持ち、守りは固い。十日で落とせねば兵は疲弊し、後ろは空になる。 その時、孫策が襲ってこれば、前進しても地獄、撤退しても地獄です。これは援軍ではなく、罠です。」
だが、劉勳の耳には届いても脳には響かず、「気にしすぎだ!孫策は義の男よ!」と笑い飛ばして出兵する。 案の定、孫策は背後を奇襲し、見事な偽装援軍アタックを決めた。
建安四年(199年)、予想通り劉勳はあえなく敗走し、ボロボロになって北へ逃げ、ついには曹操のもとへ奔った。 劉曄も彼に付き従い、この一件を通じて、ついに大国・魏の中枢へと歩を進める。
「忠告を聞かない上司」と「計略に長けた部下」の組み合わせは、いつの世もテンプレである。
曹操への仕官と初の軍議進言
劉曄が劉勳とともに曹操の幕下へと身を寄せたのは、建安四年(199年)ごろのこと。 曹操は寿春に駐屯しており、目下の悩みのタネは、廬江の地に「山の主」を気取る陳策という山賊であった。 彼は数万の兵を率いて険しい山に拠り、まるで抵抗し続けていた。
曹操は偏将を何人も差し向けたが、誰もが山に登っては谷に転がり落ち、手柄もなく帰ってくる。 痺れを切らした曹操がついに群臣に問いかけた。
「この賊、討つべきや否や?」
群臣は顔を見合わせてから慎重な声を揃える。
「山は高く谷は深い、攻めにくく守りやすい、失うものばかり多く……(小声)できれば諦めましょう……」
その中で、まだ新参の劉曄が前に出た。
「陳策など、乱世の隙間に忍び込んだただの野良賊です。威信もなければ正義の旗もない。 これまで討てなかったのは、送り出された将が軽すぎたこと、そして中原がまだ混乱していたから。 ですが今、明公(曹操)の名は天下に轟いています。民は罰を恐れ、褒美に弱い。 威を示し、恩賞を布告して大軍を進めれば、あの賊ども、軍靴の音を聞くだけで霧散するでしょう。」
曹操はこれを聞いて、喉を鳴らして笑った。
「理にかなっておる。卿はただ口が回るだけではないようだな」
そして猛将を先鋒に立て、大群で囲んだところ、予言どおり陳策軍は音を立てて崩壊した。
「山の主」は山の土に還り、賊勢力は見事に平定された。 この功により、劉曄は司空倉曹掾に任命される。
曹操との会見の沈黙
ある日、曹操は「揚州の賢人」と名高い五人の劉曄・蒋済(蔣濟)・胡質らを都へ召した。 この才子たち、道中の宿に泊まるたびに討論会を開くのが常で、 「賢とは何か」「賊を鎮める策は」「軍の進退の道とは」と、自分の意見を言わずに朝を迎えると不安になる病にかかっていた。 誰もが言葉の矢を放ち合う中、劉曄だけは馬車の中で静かに目を閉じていた。眠っていたのかと覗き込んだ蔣濟が聞いた。
なぜ何も語らぬのか。君の考えも聞いてみたい」
劉曄は薄く笑い、まるで夢の続きを語るように言った。
「賢主に仕えるには、言葉よりも心を通わせることが肝要だ。 曹公が私の言を要するならば、問うてくる。 それまでは、沈黙もまた忠義のうちにある。」
やがて曹操が五人を召し、揚州の情勢を問う。 四人は互いに先を競って意見を述べ、曹操も楽しげに相槌を打ち続けたが、劉曄は石像のように沈黙を守った。 二度目の会見でも、三度目でも同じ。ついに三度目には曹操も問いかけをやめた。 だがその沈黙の間、劉曄がふと口にした一言が、空気を変えた。 遠回しでありながら核心を突くその言葉に、曹操は一瞬で悟る。
それ以後、曹操は劉曄を特に重んじ、ほかの四人に官職を与え、劉曄だけを腹心とした。 疑うことや策を要する時は、昼を待たずに夜半の使者を走らせ、「子春よ、これ如何すべきか。」 その往復は十数度に及び、沈黙の才は、ついに曹操の耳に最も届く声となったのである。
漢中の張魯平定と蜀攻め進言
建安二十年(215年)、曹操は張魯を討つため漢中へと出陣した。 主簿として従ったのは、口より先に眉が動く男・劉曄。
張魯の弟・張衛が山に籠もり守備を固め、曹操軍は陽平山に要塞を築いたが、山は急峻で登るには命がけ、しかも兵糧も付きかけていた。
「ここは妖妄の国、取ってもうまみもなく、こちらの兵糧も少ない。」と曹操は早々に見切りをつけ、撤退を決断。 「子春、後軍は任せたぞ」と劉曄に伝令を走らせた。 命を受けた劉曄は、伝令の報を聞くなり曹操に使者を走らせて、今が攻め込むべきと進言した。
劉曄は弩兵を一斉に展開し、張衛の陣に豪雨のごとき矢を降らせた。
山の守りなど矢の雨には無力、敵は混乱し潰走。張魯も命からがら逃げ出し、漢中は呆気なく平定された。
戦後、劉曄はさらに言った。
「明公は五千の歩卒で董卓を震わせ、袁紹を退け、劉表を沈められた。 いま蜀の地は主君を得たばかりで民心が揺らいでおります。檄を飛ばせば劉備は降伏しますぞ。」
彼は続けて、諸葛亮・関羽・張飛という三重のロックが固まる前に攻めるべきだと力説した。
だが曹操は「それは今じゃない」と首を横に振った。 数日後、蜀からの降者が「蜀中は騒然。劉備は斬っても人心を収められぬ」と告げる。 曹操は「今ならどうだ?」と再び劉曄に聞いたが、劉曄は首を横に振り「もう遅い」と答えた。 機会とは、過ぎればただの過去である。
劉備の仇討ちと孫権の呉王をめぐる進言
黄初元年(220年)、曹丕が即位すると、劉曄は侍中に任じられ、関内侯となった。 前年、関羽の首が孫権によって魏に届けられ、呉と蜀の空気が不穏にざわめき始めていた。 曹丕は群臣を集めて「劉備、仇討ちに動くと思うか?」と問う。 臣下たちは口々に「羽を失えば翼も折れましょう。蜀は小国、兵は疲弊、戦は起こせまい。」と答えた。
だが、劉曄だけは首を振り、「劉備が動かぬなら、義とは何かと民が問われる。関羽は単なる将ではなく、義では君臣ですが、恩は父子のようです。仇を討たねば、天下に示した信義が崩れます。必ず兵を挙げる。」と反論する。 まるで未来を読んだかのように、翌年、劉備は大軍を率いて呉を攻めた。
孫権はそれを迎撃しつつ、魏に対して「助けて」とばかりに称藩という便利なカードを切ってきた。魏の朝廷では喜びの声が上がり、「孫権を受け入れましょう」という意見が相次いだ。だがここでも、劉曄だけは懐疑的だった。 「孫権は単に追い詰められて助けを求めているだけで、内心はまるで服していない。今、手を取ってやれば、その手でいつか刺されることになる。むしろ今こそ兵を挙げて、一気に南を平定すべきです」。
ところが曹丕は、降伏ムードに飲まれ、孫権を呉王に封じてしまう。すると劉曄はさらに強く諫めた。 「先帝(曹操)は海内を震わせ、八割の天下を握りました。 その威光をもって敵国の主を王に封じれば、敵はそれを盾に国をまとめます。 称藩どころか、魏が公式に独立を認めてやったようなもの。これでは敵を助けるために即位したようなものです。」 彼は「封ずるなら将軍号に十万戸の侯までが妥当です」と冷静に落としどころを提案したが、 曹丕としては、すでに王位を与えた以上、引き返すことも取り消すこともできない。
やがて劉備は夷陵の戦いで火だるまとなり、敗走。 その後、孫権は案の定「忘れてました、やっぱり魏の臣じゃありません」と態度を一転させた。
黄初三年(222年)、キレた曹丕は3方向から同時に呉を攻めたが、どれも失敗に終わっている。 そのとき朝臣たちは、ようやく劉曄の言葉が未来日記だったことに気づいたが、もう後の祭りだった。
広陵遠征と孫権出陣の予測
黄初五年(224年)、リベンジを図る曹丕は自ら大軍を率いて広陵泗口に臨み、荊州・揚州の諸軍に並進を命じた。
出発前、曹丕は群臣を集めて尋ねた。 「孫権、自ら出てくると思うか?」 諸臣たちは声を揃えて「陛下が親征されれば、孫権など恐れて必ず出陣してまいりましょう」と自信満々に言った。
だが劉曄だけは、やはりひと味違った。 「孫権は江を隔てた場所に陣を構え、陛下が川を渡るかどうかを見て判断するでしょう。別将が来るなら対処する。皇帝自らは来ないと見れば、兵を動かさず静観するはずです」 つまり、「皇帝が濡れてまで戦うなら考えるが、濡れないなら知らん顔」という、孫権らしい日和見を読み切っていた。
そして実際、孫権は一向に姿を現さず。徐盛の疑城の策もあり、最終的に手ぶらで引き上げることになる。 撤退の際、曹丕はさすがにバツが悪かったのか、劉曄に向かって「卿の見立ては正しかった」と素直に認めた。
だが、反省だけでは終わらない曹丕は、そのあとでこう皮肉を付け加えている。 「次からは敵の出否を当てるだけでなく、どうやって討つかまで考えてくれ。」 つまり、「評論家は卒業して、実務に貢献してくれ」といったニュアンスである。
魏諷・孟達の裏切りを予見す
名声と人望は、時に毒にもなる。建安二十四年(219年)頃、魏の都・鄴では魏諷という人物がちょっとしたスター扱いを受けていた。 その人望たるや、卿や公たちがこぞって彼のもとに挨拶に通うほど。才気煥発・眉目秀麗・人当たり良し。インフルエンサー顔負けである。
だが劉曄は違った。 一度会っただけで、「あれは反逆者の眼をしている」と断言した。何を見たのかはわからないが、流行りの人間観察術では測れないセンサーが働いたらしい。 数年後、魏諷は予言通りに反乱を起こし、予言通りに粛清された。劉曄、またしてもド正解である。
その後も、文帝・曹丕の時代になってからも同じような出来事があった。 今度の主役は孟達。元は劉備に仕えていたが、呉の関羽討伐の際に魏に寝返り、新城太守に抜擢された。 朝廷では「現代の楽毅」とまで称賛され、まるで救世主でも来たかのような扱いを受けた。
そこへまたしても劉曄が登場し、冷水を浴びせる。 「この男、恩知らずで、才を鼻にかけ、策ばかり弄しておる。遅かれ早かれまた裏切る。」 だが文帝が耳を貸さなかった。
太和元年(227年)、曹丕が死んで立場が弱くなった孟達は諸葛亮とこっそり連絡を取り、まんまと謀反を企てる。 結局バレて司馬懿に討伐されている。 劉曄は未来予知こそしないが、人を見る目においては、すでに人外の域に入っていた。
魏明帝期の昇進と公孫淵の反乱予見
太和元年(227年)、魏明帝・曹叡が即位した際、劉曄は東亭侯に任じられ、食邑三百戸を与えられた。
太和二年(228年)ごろ、遼東で政変が起き遼東太守・公孫恭は甥の公孫淵に権力を奪われ、公孫淵は自ら太守を名乗った。 公孫氏は漢代以来その地域を治め続けており、山と海に守られた独立国家として中央からの指図なんぞ「海の向こうの声」とばかりに聞き流してきた。
朝議で劉曄は「公孫淵の政権は未だ浅薄で、党派と仇敵が内側にある。今こそ兵を挙げ、恩賞を以て動かせば、戦わずして平定できる。 しかし何もしなければ、淵は反旗を翻し、そのとき討伐すればかえって難しくなる」と進言した。
しかし、朝廷は「遠いし、面倒くさいし、まあいっか」で片付けた。
やがて景初元年(237年)、劉曄の言ったとおり公孫淵は魏に叛旗を翻す。 中央は慌てて毌丘倹を派遣するが、これは失敗。結局、司馬懿がわざわざ東の果てまで遠征し、ようやく始末をつけた。 「だから言ったでしょう」が劉曄の口癖だったかは知らない。しかし、予言者・劉曄の眼差しは、またしても時代を先取りしていた。
明帝との密議と二面の知略
太和年間、明帝・曹叡は蜀を攻めようと考えていた。だが朝廷では「険阻すぎる、遠すぎるし、やめたほうがいい」と否定的な声ばかりが響いていた。
そんななか、劉曄は密かに宮中へ入り、明帝にこう囁いた。
「いま攻めれば勝てます」
そして翌朝、朝堂では群臣たちに肩を並べ、「いやぁ、攻めるには時期尚早ですね」と涼しい顔。 口を開けば誰もが「なるほど」と頷き、誰もが「劉曄も我々の味方だ」と安心する。
まさに、場に応じて空気を吸い、真空対応型の知将である。
中領軍の楊暨もまた、蜀攻め反対派の筆頭であり、劉曄を心から敬っていた。
「曄公も、やはり蜀は無理だと申しておりました」
ある日、朝議でそう主張した楊暨に対し、明帝は顔をしかめた。
「あの劉曄が? 彼は朕に今が好機と言っておったぞ?」その場で劉曄を呼びつけ、問いただすと、彼はただ黙して応じず。
後日、二人きりの場で、劉曄は明帝に話し出した。
「軍事とは詭道なり。詭道においては沈黙こそが最大の忠誠でございます。 臣が『あの方にもこう言いました』などと軽々しく口にするような者なら、そもそも密事に加えるべきではありませぬ。」
この口上に明帝はぐうの音も出ず、「なるほど、それも一理」と感心して引き下がった。
その後、劉曄は楊暨にも一言、釘を刺す。
「釣りはな、魚がかかったからといってすぐに引き上げてはならんのだ。 人君の威信もそれと同じ。直言もいいが、言いどきを見誤ると糸は切れるぞ。」
楊暨はこれを聞き、深々と頭を下げたという。
剣は使えば折れる。言葉は使い分けるもの。 この時代において、「正しさ」よりも「使いどころ」を見抜いた者こそ、真に重用されたのである。
晩年の孤高と最期
劉曄晩年、朝廷にあってもほとんど当時の人々と交わらなかった。
ある者が理由を尋ねると、彼は穏やかに答えた。 「魏の王朝は即位して日が浅く、智ある者は時勢をわきまえ、俗人はまだ心を一つにしていない。私は漢の時代には宗族の末席にあり、魏においては腹心の臣である。交わる友も少なく、従う者もわずかだが、それで十分である。」
なるほど、と頷く者もあれば、首を傾げる者もあったという。
太和六年(232年)、劉曄は病を得て太中大夫に任じられ、その後大鴻臚へ昇進。
しかし二年ほど務めたのちに辞し、再び太中大夫に復帰した矢先、間もなく薨去した。
死後、諡は景侯と贈られ、子の劉寓がその地位を継いだ。
誰もが先を争って意見を並べる時代に、劉曄は黙してその先を見抜いた。
功を誇らず、賞を求めず、ただ一歩引いたところに知があった。
口数少なくとも、歴史はその言葉を聞き逃してはいない。
陳壽による評価
『三國志』の陳寿は、彼を程昱・郭嘉・董昭・蒋済(蔣濟)と並べ、 「徳においては荀攸に及ばずとも、その計略と洞察の深さは、これらの者が同列にある。」と評した。
ただの参謀ではなく、魏の代表する戦略家の一人として高く評価されている。
一方、『傅子』は違う見方をしている。
曰く、劉曄は「顔色をうかがい、上意に沿う答えばかりする」。ならば、と明帝はわざと逆の質問をぶつけて試したところ、見事その罠に落ちたというのだ。
これを以て、明帝は彼を遠ざけ、劉曄は憂い悶え、狂気の果てに亡くなった――と、まあ話はできすぎている。
『傅子』によれば、ある日、誰かが明帝にこう吹き込んだ。
「劉曄は表向きは忠臣を装っていますが、実は陛下の顔色をうかがって意見を合わせているだけ。逆のことを尋ねてごらんなさい、本性が見えますよ。」
そこで明帝は試みに真逆の質問をぶつけてみた。劉曄は、それに合わせた答えをしてしまい、「やはり迎合しているだけか」と見限られてしまったという。
以後、劉曄は朝廷から遠ざけられ、大鴻臚に左遷されたのち、失意のうちに世を去った。
『傅子』はこの結末に、「巧詐は拙誠に如かず(巧みに立ち回る者も、誠実には敵わぬ)」と締めくくっている。
確かに巧く立ち回ったようにも見える。だが、孟達の裏切りも、孫権の虚構の降伏も、劉備の呉征伐も、公孫淵の二心も、彼だけが一人で反論し、その意見は採用されていない。
口を開けば正論、目を凝らせば先読み。そんな人物が、ただご機嫌取りに終始したとは思いがたい。
結局のところ、「巧詐は拙誠に如かず」とは、劉曄に言うより、彼を使いこなせなかった側にこそ響く言葉ではなかろうか。
参考文献
- 三國志 : 魏書十四 : 劉曄傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書一 : 武帝紀 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/卷063 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷069 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷070 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:劉曄 – Wikipedia
劉曄のFAQ
劉曄の字(あざな)は?
字は子揚(しよう)です。
劉曄はどんな人物?
非常に聡明で胆力があり、局勢を読む洞察に優れていました。幼少から機知に富み、冷静な判断を下す人物でした。
劉曄の最後はどうなった?
晩年、魏明帝に疎まれ、心を病んで太中大夫として没しました。享年は不詳です。
劉曄は誰に仕えた?
曹操・曹丕・曹叡の三代に仕えました。
劉曄にまつわるエピソードは?
13歳で母の遺言を果たすため父の家臣を斬りました。また魏諷や孟達などの裏切りを予想しました。
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