1分でわかる忙しい人のための太史慈の紹介
太史慈(たいしじ)、字は子義(しぎ)、出身は東萊郡黄縣、生没年(166〜206年)
信義を重んじ、弓術に長けた武人として知られる太史慈は、黄巾の乱や群雄割拠の激動期において、孔融や孫策に仕えて多くの軍功を挙げた人物だ。
母への恩義と信念に従い、包囲下の孔融救援のため単騎で敵陣を突破。後に孫策と一騎打ちを交わした後に臣下となり、信頼を得て江東平定にも貢献した。
義に生き、忠を貫いた太史慈は、最期まで自身の志を追いながら41歳で没した。信義の武人として、後世に名を残すことになる。
太史慈を徹底解説!忠義と弓術に生きた東萊の猛将
太史慈の生涯と人物像:東萊出身の信義に厚い弓馬の達人
東萊郡黄縣に生まれた太史慈は、見た目からして目立つ男だった。
身長は七尺七寸(約185cm)、長い腕で素早く弓を引き、一射必中。その技量は「猿臂善射、弦不虚発(猿のような腕で弓を操り、放てば必ず命中する)」と評されるほどだった。
弓馬の技に優れた武将は他にもいるが、彼が異彩を放ったのは”やる時はやる”度胸と行動力。
孔融からの信任、孫策に降っても信頼を勝ち取る順応性、さらに敵中突破すら平然とやってのける胆力。
しかもそれらが全部、見栄でも出世欲でもなく、「義理人情ベース」というのがまた厄介だ。
そのせいか、太史慈の周囲にはなぜか敵も味方も「この人なら仕方ない」という空気が生まれる。
弓が当たるだけでなく、人の懐にもスパッと入り込む。まさに、弓術と人間力のハイブリッド将軍である。
奏章争奪戦:太史慈が州府使者を騙した策略とは
時は後漢末、東萊郡と青州州府の間に報告合戦が勃発。
内容の食い違う奏章(地方報告書)を、それぞれ洛陽の中央に提出しようとしていた。
問題はそのルール。「中身は見ない、先着順」というシンプルかつ残酷な制度だった。
つまり、あとから提出したほうは無視される。
紙切れ一枚がすべてを決めるこの勝負で、出遅れた東萊郡の命運を背負ったのが太史慈だった。
そして彼は、”義の男”でありながら、手段の選ばなさでも他を圧倒していた。
洛陽の城門に辿り着いた太史慈が目にしたのは、すでに先着していた青州州府の使者だった。
太史慈はすかさず近づき、にこやかに声をかける。「おや、あなたも通章の手続きに?」
警戒心ゼロの使者はうなずき、「はい、奏章は車に載せてありますよ」と返す。
そこで太史慈は自然な口調で続ける。「題字など間違っていませんか?少し見せていただけますか?」
まったく疑う様子もなく、使者は奏章を手渡した。
その瞬間、太史慈は懐から刀を抜き放ち、ためらいなく書類をズタズタに切り裂いた。
「奏章が! 誰か、奏章を破られた!」

叫び声をあげる使者に対し、太史慈は冷静にこう切り返す。「だって、君が奏章を自分で出したじゃないか。これは共犯だよ」
さらに、その場で騒ぎ立てる使者を、太史慈は人気のない場所に連れて行き、「このまま帰れば、お互い罰を受けるだけだ」と説得を始めた。
さらに「だったら、一緒に逃げよう。命だけは守れるかもしれない」と語りかける。
疑念を抱いた使者は尋ねる。「でも、あなたは郡の任務を達成したのに、なぜ逃げる必要が?」
太史慈は答える。「最初は確認だけの任務だったが、つい壊してしまった。これでは咎められる。
だから一緒に逃げよう、責任は半々だ」
すっかり信じた使者は彼とともに洛陽を出る。
だが、途中で太史慈は密かに引き返し、郡府の奏章を中央に提出して勝負を決めた。
青州州府が改めて奏章を出したときにはすでに遅く、規定により受理されなかった。
こうして東萊郡は勝利を収め、太史慈の名声は青州に鳴り響いた。
だが当然ながら、州府の怒りを買い、命を狙われる存在となってしまう。
彼は親族を連れて遼東へ避難。
任務達成と逃亡生活の両方を手に入れたこの一件こそ、太史慈という男の”光と影”を象徴する事件だった。
劉政救出劇:公孫度の魔の手から逃れた策略と縁
初平二年(191年)、世は黄巾の余燼がくすぶり、誰もが「ここじゃ危ない」と右往左往していた時代。
そんな混沌の中で、儒者の邴原とその親友・劉政は、北海から遥か東の地・遼東へと避難していた。
だが安全地帯と思われた遼東で、思わぬ人災が降りかかる。
遼東太守・公孫度が、なぜか劉政に強烈な敵意を燃やしていた。
理由は不明で、もしかすると文官っぽい顔が気に食わなかったのかもしれない。
とにかく彼は、部下に命じて劉政の身柄を拘束しようとしたが失敗。仕方なく家族を監禁し、通緝令まで出した。
絶体絶命の劉政は、邴原のもとへ逃げ込む。邴原は旧友を匿い、家の中に一か月以上かくまった。
まさに「誰かに見つかれば全員アウト」状態である。だがここで、まさかの”救世主”が通りがかる。
旅の途中に邴原の家に立ち寄った太史慈に、邴原は劉政を託す。
「この男を、どうか安全な地へ」と頼まれた太史慈は、迷わず頷いた。
太史慈と劉政は、密かに遼東を離れ、追手の目を逃れていった。
その後、邴原は単身で公孫度のもとに出向き、堂々とこう言った。
「劉政はもういません。せめてその家族を、罪なき民として放ってはいただけませんか」
すでに後の祭りだったこともあり、公孫度はしぶしぶこれに応じ、家族は無事解放された。
一人の文士の義、もう一人の武人の信。
太史慈が劉政を連れ去ったこの一件は、乱世の片隅で静かに燃えた”人間関係の炎”である。
これが派手な戦功でないのは確かだが、太史慈という人物の”顔”を、またひとつ明らかにした。
孔融を救え!母の恩義に応えた都昌の突入作戦
人間、貸し借りには敏感だ。ましてや「母親に対する礼」を受けたとなれば、それはもう一族の血で返すレベルの恩義。
孔融から母へたびたび贈られた世話と贈り物は、太史慈の中で”命を賭けるに値する義理”へと変換された。
ちょうど黄巾賊の管亥が孔融を都昌で包囲していたとき、遼東から戻った太史慈は母からこう言われる。
「あなたは孔北海に会ったことがない。でも、あの人はあなたが出てから、まるで身内以上の親切で私に尽くしてくれた。
そんな人が今、賊に囲まれて困ってる。助けに行きなさい」
まさかの”義理返し出陣”発令である。
こうして三日間だけ実家でチャージした太史慈は、たった一人で都昌へ突進。
包囲はまだそれほど厳しくなかったらしく、夜の闇に紛れて城内へ滑り込むと、いきなり孔融に直談判した。
「いますぐ兵を出して、やつらを討ちましょう」
だが孔融は慎重派だった。「援軍を待つ」というスタンスを変えようとしない。
そして状況は悪化、包囲はどんどん狭まる。
孔融は近隣の平原相・劉備に援軍を求めたくなるが、肝心の”行ってくれる人”がいない。
「じゃあ、俺が行こう」と名乗り出る太史慈。これには孔融も戸惑った。
「いや、誰も抜け出せないって言ってるし……」
「そう言われても、あんたがウチの母にあれだけ良くしてくれたから、今こうして俺がここにいる。
その”情”を無駄にするわけにはいかんのです。
やる前から無理って決めるのは、あんたの人を見る目も、ウチの母の判断も否定することになる」
恩義に生きるとは、こういうことだ。口先だけじゃない。
その一言で、太史慈は孔融の信頼を勝ち取り、命がけの突破使者に選ばれることとなる。
北海国から平原へ:太史慈が劉備を動かした言葉
太史慈は、まず敵の目を慣らすところから始めた。
ある朝、弓と矢を背負い、従者ふたりに的を担がせ、堂々と城門から出ていく。
包囲していた黄巾軍は警戒するも、太史慈はその場で弓の練習を始めるだけ。
翌日も、また翌日も同じことを繰り返すと、敵兵たちは「はいはいまた射的ね」と寝転がるようになった。

その空気に油断が漂った頃、太史慈は鎧を着こみ、馬にムチを入れて城門からダッシュ。
背後で気づいた賊兵が騒ぐ頃には、彼はもう遥か遠く。
振り返って数本の矢を放つと、ぴしゃりぴしゃりと賊兵が倒れていく。
そう、これが”猿臂善射、弦不虚発”の真骨頂だった。
向かったのは平原。目的は劉備への直談判。
「孔融とは血も地縁もない。でも、彼の人柄に惹かれ、助けたいと思った。
命がけでここまで来たのは、それだけの価値があると信じたからです」
そう訴えた太史慈に、劉備は驚いた顔で言った。「孔融がオレのこと知ってたの?」
その一言のあと、劉備は即断即決。
三千の兵を太史慈に託し、彼と共に都昌へ向かわせた。
援軍が来たと知るや、黄巾軍は蜘蛛の子のように散っていき、包囲はあっさりと解かれた。
救出された孔融は喜びのあまり、「君こそ、わたしの若き親友だ」と語り、
太史慈の帰宅後、母親も安堵の笑みでこう言った。「孔融への義理を、果たしてくれてうれしいよ」と。
孫策との神亭決戦:一騎打ちで交わされた信頼の証
興平二年(195年)、太史慈は遼東から帰還し、同郷の劉繇を訪ねて曲阿へ向かった。
ところが、すでに江東を席巻した孫策軍が進軍しており、劉繇の陣営は戦意を失いかけていた。
部下から「太史慈を大将軍にすれば?」との進言もあったが、劉繇は「そんなことしたら許劭に笑われる」と意味不明な照れ隠し。これが当時の人間関係。
結果、太史慈は斥候役を任される。だが、現場で黙って偵察するような男ではない。
神亭で敵情を探っていると、馬上に孫策本人がいるのを発見。しかも周囲には韓當、宋謙、黄蓋など、筋金入りの強者13騎。
しかし太史慈、なぜかここで突っ込んだ。
激突の末、馬を刺されるわ、首の手戟を奪われるわで、満身創痍。
……だが太史慈も黙ってはいない。孫策の兜を奪い返し、がっぷり四つの一騎打ちは、まるで武侠ドラマのワンシーン。
そのまま双方の援軍が到着して中断されたが、ふたりの名前は、この瞬間を境に深く結びついた。

劉繇と太史慈は孫策に敗れ、劉繇は山中へ逃亡。
一方で太史慈は涇県に屯所を築き、山越族と連携しつつ抗戦を続ける。
しかし最終的には孫策に捕らえられるものの、そこでもドラマが待っていた。
縄を解いた孫策は、太史慈の手を握りながら語った。
「神亭で出会ったあのとき、お前が俺を捕えていたら、どうしていた?」
太史慈は答える。「さあ、それは分かりません」
この素直な返答に孫策は笑い、「今日から、お前と天下を共にする」と宣言。
太史慈は門下督に任命され、孫策の側近として新たな道を歩むこととなる。
孫策への忠義:降伏後に見せた信義と約束の帰還
太史慈が孫策軍に加わったのは、単なる敗将の末路ではなかった。
劉繇が逃げた後、まだ降らぬ兵が一万人以上も残されていた。太史慈は彼らを説得するために派遣されたが、その場にいた誰もが「これっきり戻らない」と思っていた。
しかし、孫策は違った。「子義が俺を見限って、誰に仕えるってんだ?」と一言。
餞別のため、彼は太史慈を昌門まで自ら見送り、別れ際には手を握りしめてこう尋ねた。
「いつ戻ってくる?」
「六十日以内には必ず」
このとき孫策は、まるで心を見透かすかのように語りかけた。
「郡章を奪ったあの義の行動、孔融や劉備を助けたお前の信念、全部わかってる。
昔の偉人だって敵だった奴を許して重用してる。射鉤斬袪、誰も管仲や寺人披を責めたりしない。
俺はお前の知己だ、気にするな」
そしてもう一つ
「龍が空を翔けるには、まずは足元の木から登るもんだ」
太史慈はその言葉を胸に刻み、約束通り六十日以内に戻ってきた。
彼は以後、折衝中郎将となり、孫策軍の将として兵権を任される。
祖郎の戦いでは先導として軍を引き、配下たちは皆、彼の姿を誇らしく語った。
劉磐との戦いと建昌統治:南方平定の功労者に
劉表の従弟・劉磐と、その部下の黄忠が攸県一帯で蠢き始めたのは、江東がようやく落ち着きを見せ始めた矢先だった。
孫策はこの厄介な勢力に対抗するため、建昌都尉として太史慈を派遣。海昏を中心に秩序維持を託した。
彼の任務はシンプルかつ地味、だが成果は極めて派手だった。
太史慈は見事に劉磐の勢力を江東から駆逐。
剣も血もなるべく使わず、”穏やかに排除する”戦術で、南方の安定を実現してみせた。
建安八年(203年)、この功績により孫権は南方統治の全権を太史慈に任せる。
太史慈、完全に信頼されすぎて逆にヒマがなくなるフェーズ突入である。
そんな折、曹操からスカウトの手紙が届いた。
中には「当帰」という薬草が1本、何の説明もなしに添えられていた。
意味するところは「故郷(青州)に帰れ」
つまり、「曹操の支配下に来い」という謎かけ的なアプローチである。
だが太史慈は返事を出さなかった。意味が分からなかったのかもしれない。
いずれにせよ、「既読スルー」ではあるが、それは沈黙の意志表明。
義の人にとって、たとえ当帰を突き付けられても、忠義の針はブレない。
弓術の神業!「貫手著棼」の逸話が語り継がれる理由
太史慈の弓は、ただの遠距離攻撃手段ではない。
それはもはや「指導と教育」、いや「見せしめ」レベルの精度を誇っていた。
麻保の戦い、敵将が城楼からこちらを煽り倒していた時のこと。
「うるせぇな」と言わんばかりに、太史慈が弓を引く。
その矢は風を裂いて飛び、敵将の手をぶち抜き、背後の柱に突き刺さった。
敵は絶叫しつつ”串刺し”状態、まるで悪霊封じの護符のように
城楼に固定されてしまった。
この神業、「貫手著奔(かんしゅちゃくふん)」
“手を貫いて柱に貼り付ける”という芸当は、軍中で大喝采を浴びた。
以後、太史慈の弓術はただの戦技ではなく、「伝説」として語られ続けることになる。
敵の魂ごと射抜いたかのようなその一矢は、江東の空気すら一瞬で静める威力を持っていた。
太史慈の死と評価:志半ばで逝った信義の武人
建安十一年(206年)、太史慈は病に倒れ、その短くも激しい生涯に幕を下ろす。
享年41歳──歴史の大舞台を駆け抜けた男としては、あまりに早すぎる終焉だった。
死の間際、太史慈は「家の者は孫権殿にお礼を」と語ったという。
孫権への感謝、それが彼の最後の言葉だった。
戦場で轟いたあの咆哮は、最後は静かに、主君への忠義となって消えた。
太史慈の死に、孫権は深く悲しみ、彼を哀悼した。
その後、太史慈の故郷に戻すべきか、江東に葬るべきかで論争が起きた。
それだけ彼の死は、政治と感情、忠誠と故郷を揺るがすものだった。
「信義篤烈、有古人之分」
太史慈の人物を評して、こう記された。
“古人に通じるほどの信義の厚さ”を持ったこの男は、
まさに義に生き、義に殉じた武人だった。
その評価は後世にも受け継がれ、
三国志という血と策謀の時代において、
太史慈の名は”最後まで信を貫いた者”として燦然と輝き続ける。
参考文献
- 参考URL:太史慈 – Wikipedia
- 正史『三国志』巻五十四「呉書・太史慈伝」
- 裴松之注『三国志』および『資治通鑑』該当記述
- 『三国志集解』、中華書局
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