1分でわかる忙しい人のための魯粛(ろしゅく)の紹介
魯粛(ろしゅく)、字は子敬(しけい)、出身は徐州臨淮郡東城、生没年(172年~217年)
※正確には魯肅だが、魯粛で統一します。
後漢末の武将であり、呉の重臣、外交・軍略の両面に優れた人物である。周瑜の親友として知られ、赤壁の戦いを前に孫権へ主戦論を説いた功臣の一人である。
また「榻上策」と呼ばれる戦略構想を孫権に献じ、江東を基盤とした独立政権の青写真を描いたことで知られる。
生前は都督職に就かなかったものの、事実上は呉の軍政を担った存在であり、周瑜没後にはその兵権を継いで南郡・陸口の統治にあたった。
関羽との「単刀赴会」や、劉備との荊州問題の調停など、政治的交渉力にも優れ、呉の外交を実質的に支えた。
質実剛健で学問を好み、軍中でも書を手放さなかったという逸話を持つ。
その死後、孫権は「魯子敬早くもこの時を見通していた」と述べ、その先見性を称えた。
魯粛を徹底解説!赤壁の勝利の立役者、荊州分割・単刀赴会など周瑜亡き後を支えた生涯
少壮軽狂と郷里での準備
魯粛(魯肅)は臨淮郡東城の人。幼くして父を失い、祖母の手で育てられた。家は裕福で、財は困った者に使うものという教育方針だったのか、幼少から惜しみなく布施を行い、郷里の人々から深く敬われた。
後漢末、乱世のきざしが空を曇らせ始めると、魯粛は家業を棚に上げ、田地を売って、志ある若者に衣食を与え始めた。気前の良い青年というよりも、世の成り行きを見通した策士のようだった。
《呉書》は彼を、体は大きく志は高く、そして奇計を愛する男と書く。実際、彼は南山に若者を集め、猟をさせ、衣を与え、密かに部隊を組織し、兵法を教え込んでいた。今で言えば、全寮制の軍事予備校を自費で開いたようなものだ。
この様子を見た郷中の父老(名家や郷里の長老たち)は、魯家もいよいよ落ち目かと思えば、このような異端児を出した!と嘆いた。だがその異端児こそが、この後の時代を支える柱になるとは、誰も知らなかった。
糧倉から始まる周瑜との固い友情
仕官前の魯粛と、すでに軍事で名を挙げつつあった周瑜と強く結びつけた有名な逸話がある。
ある時、周瑜が軍糧を切らして魯粛を頼りにやって来た。魯粛の家には二つの大きな糧倉があり、それぞれ三千斛の米を貯えていたという。周瑜が糧を願うと、魯粛は迷わず倉の一つを指し示し、「ここを使え」と命じた。言葉少なに、信頼という名の供給を与えた行為だった。
相手の苦境を分かち、力を託すという覚悟を目の当たりにした周瑜は「この人物こそ凡人にあらず」と、魯粛の度量と誠意を見抜き、以後、二人の友情は策略や思惑を超え、古の子産と季札のように親密な友となった。 彼らの結びつきは、後の呉の政治と軍略の根幹を支える信頼関係の原点であった。
袁術政権離脱と江東への集団移動
魯粛は、周瑜との交友を通じて袁術政権である程度の名声を得、東城長の地位すら与えられた。だが、よく見ると袁術には統治者の品格は皆無で王者の器がない。あるのは大雑把な人事と、酒だけで書かれた政治方針である。魯粛はすぐに見限った。
彼は老弱男女を百余人、腕っぷしの強い若者を数十人集め、江東を目指す集団脱出を敢行する。
「この地は綱紀もなく、賊ばかりが元気で、未来がない。淮泗はもう人の住む場所じゃない。江東は沃野万里、民は豊か、兵は強い。向こうで時の変化を見届けようではないか」という、この説得文句に三百余人が賛同し南へ動いた。
行軍中、魯粛は弱者を前に、強者を後ろに配置して秩序を保った。 途中、州郡の騎兵が「勝手な引っ越しは禁止」とばかりに追撃してきたが、魯粛は一歩も騒がず、矢を放って盾を貫通しながら「もし理性があるならば、この混乱の中で功を求め、罪なき者を罰するのはおかしいではないか」という説得とパフォーマンスの合わせ技に、騎兵はしぶしぶ退いた。
魯粛は無事に江を渡り、孫策のもとに到着した。孫策は彼を見て「雅奇の士(変わってるけどすごい奴)」と賞賛したが、その直後、魯粛の祖母が亡くなった。
彼はただちに東城へ戻り、彼は東城に戻って葬儀を取り仕切った。脱出劇の指揮官にして、孝の人でもあった。
君主を選ぶ決断と孫権への帰属
祖母の葬儀を終えた魯粛のもとに、一本の書簡が届く。差出人は劉子揚で「今、天下に群雄が割拠し、君のような人材を各地のボスたちが求めている。中でも巣湖の鄭宝は万の兵を擁し、土地は肥え、人心は厚い。まさに仕官チャンス到来だ」と記されていた。
手紙を読み終えた魯粛はうなった。確かに悪くない条件である。 だが、答えを出す前に、母がいない事に彼は気づいた。よくよく探せば、母はすでに周瑜の手で呉郡に移されていた。 事情を聴いたは周瑜は「昔、馬援は『今の時代は、君主が臣を選ぶだけでなく、臣も君主を選ぶ』と言った。 孫権殿は英主で、奇才を求めてやまない。しかも、天命が劉氏を去るなら、次はこの東南にこそある。そんな中で、君が鄭宝を選ぶのは「推しのランク」を間違えていないか?」
たしかに劉子揚の紹介は魅力的だった。しかし、周瑜の説得はもっと理にかなっていた。
魯粛は即座に北上をやめ、孫権に仕える道を選び、周瑜は孫権へ「魯粛は時を補う人物です。このような逸材を野に放ってはなりません。」と推挙する。
こうして魯粛は、ただの自由人から「江東の臣」へと肩書きを変え、東南の歴史に足を踏み入れるのであった。
榻上策の提出と張昭の非議
ついに、魯粛が主君と出会う日が来た。周瑜の推薦を受け、孫権は魯粛をただちに召し出し、他の賓客は全員お引き取りを願う。
二人きりの密談の場が整った。この一夜の会談が、後に「榻上策」と呼ばれる伝説となる。
孫権は開口一番、正直すぎるほどに核心を突く。
「漢室は風前の灯。四方に敵がはびこる。私は父兄の志を継ぎ、かの桓公や文公のような覇業を成したい。卿はどう助けてくれる?」
魯粛は一礼して、持論を述べる。
「高祖・劉邦が義帝を奉じて功を成せなかったのは、項羽がいたからです。今の曹操がまさにその項羽です。
漢室はもう再建不能、曹操も一朝一夕には倒れません。ならば、将軍は江東に根を下ろし、まず黄祖を平らげ、ついで劉表を制す。
長江流域を押さえれば、天下三分の一角となりましょう。
これはもはや『漢室再興』ではなく、『新しい国』を建てる大計です。」
孫権は一瞬たじろぎ、「私はただ漢室を支えたいだけだ。卿の策は…ちょっとスケールが違うな」と苦笑したが、その夜以降、彼の眼は明らかに変わったという。だが、この雄弁に水を差したのが、いつもの張昭である。「魯粛は若輩で軽率。しかも謙虚さゼロ。こんな男に出世させるなどもってのほか」と非難した。
だが孫権、気にするどころか開き直って厚遇を重ねた。「じゃあもっと厚くするわ」と言わんばかりに、諸葛瑾と同列に扱い、家族にも衣と帷帳を贈って名門の風格を取り戻させた。
このとき孫権は、張昭の安全運転を捨て、魯粛のアクセル全開路線に舵を切った。
これが後の「江東自立・天下鼎立」路線の原点である。
荊州工作と劉備連携の布石
建安十三年(208年)、荊州の劉表が没した。支配の軸を失った荊州はまさに空虚な王座となった。この混乱を見逃すはずもない魯粛は、孫権に進言した。
「荊楚こそは江東と隣り合い、水陸に通じ、山に守られ、沃野を抱えた要地です。 もしこの地を取れば、帝王の基盤すら望めましょう。 今、劉表の後継は劉琮・劉琦はバラバラ、軍は派閥だらけ。 劉備は曹操と因縁があるうえ、劉表に仕えていたが使われずに恨みを抱いていた。 この男を味方にすれば、天下の動きすら手中にできるでしょう。」
つづけて魯粛は一歩前へ出る。「私に任せてください。弔問を名目に荊州へ赴き、劉備を口説き、同盟を結びましょう。 ただし機を逸すれば、まず曹操が動くでしょう。」
孫権は早速これを受け入れ、魯粛を急派する。魯粛が夏口に着くと、すでに曹操は荊州に手を伸ばしつつあった。 慌てて南郡を目指すが、劉琮はすでに降伏、劉備は南へ避退中。魯粛は険しい山道を越え、当陽・長坂で劉備に追いつく。
そこで彼は孫権の言葉を伝え、江東の安定と潜在力を説く。劉備は大いに喜び、「江東の将、真に信に値する」と称えた。 そして諸葛亮がその場にいたとき、魯粛は彼にも「私は子瑜(諸葛瑾)の友人です」と語りかけた。これは挨拶どころか戦略である。諸葛亮が「悪い男じゃないな」と思ったかどうかは記録にないが、そこから友情が生まれた。
その後、劉備は夏口に入り、諸葛亮を江東へ派遣し、孫権と交渉させる。魯粛は帰還して報告を行い、これが後年の「孫劉同盟」成立へと通じる、最初の布石である。
赤壁前夜の主戦論主導と決断
建安十三年(208年)、曹操が荊州を制圧して南下開始する。 この知らせに、孫権陣営は「降伏すれば命だけは助かるんじゃないか」という空気に一気に傾く。
諸将が口々に「曹操様に降って生き延びよう」と唱える中、魯粛だけは沈黙を保ち、会議でも一言も発しなかった。
孫権が更衣のため席を立つと、魯粛は屋外まで追いかけ、主君の手を取って言った。
「将軍、私なら曹操に降って、地元で小役人にでもなれましょう。牛車で通勤も悪くはない。
しかし将軍が降れば、宴席の余興か、はたまた見せしめの吊るし首か。どうか大計を早く定め、衆人の言葉に惑わされぬようにしてください。」
その言葉に孫権は一瞬顔色を変えた。黙したまま暗闇を見つめ、やがてゆっくり言った。
「この群臣の意見は、私を失望させるものばかり。だが卿の大計は我が志に重なる。天は私に真正の策士を与えたのだ。」
この言葉により、孫権は抗戦の決意を固めた。
これがのちの赤壁開戦の直接的な契機となった。
その後、鄱陽から周瑜が呼び戻され、魯粛は贊軍校尉として軍略を補佐した。
こうして孫権は開戦を決断し、赤壁の戦いに踏み出す。
魯粛の進言は、孫呉存続の運命を左右した決定的な一言であった。
赤壁勝利後の論功と南郡争奪戦
赤壁で曹操軍を大破したのち、魯粛は勝利の報告に戻った。 孫権は魯粛を厚く遇し、自ら馬を降りて言った。
「子敬、鞍を持って下馬して迎えるだけで足りるか?」
魯粛は笑みを浮かべて応じた。
「まだ足りません。四海を統一し、安車にて召してこそ、功が明らかになります。」
孫権はこれを聞いて手を打ち、朗らかに笑ったという。
建安十三年(208年)、戦局はさらに南郡の地へと移った。
孫権軍では、周瑜・程普・周泰・甘寧・呂蒙・凌統らが主力として出陣し、魏の曹仁・徐晃・楽進・文聘らと対峙した。
両軍は互いに陣を張り、ほぼ一年にわたって膠着状態が続いた。
一方、孫権は前線の圧力を下げるために、十万(自己申告)の兵で包囲をかけたが、こちらは百日ほど粘ってから手を引いた。
その膠着のあいだ、劉備は隙あらばと、地盤固めに勤しみ、荊南四郡(桂陽・武陵・零陵・長沙)を攻略を開始する。
劉備の南征は迅速で、荊州の南部を掌握することに成功した。
最終的に曹仁は南郡から撤退し、孫権と劉備の連合軍が南郡の支配を確立。荊州の大部分は平定され、劉備の勢力は荊南四郡まで伸びた。 魯粛が布石を打ち、周瑜が火を放ち、劉備が畑を耕した、とでも言うべき荊州動乱の序章である。
劉備との荊州借地問題
建安十四年(209年)、荊州牧の劉琦が病死してしまう。 配下の勧めもあり、劉備が「私が荊州を預かりましょう」と自然な流れで州牧を名乗り、拠点を公安に定めた。 孫権はその動きを恐れ、「妹を嫁がせて縁を結ぼう」と政略結婚を画策する。 だが劉備は「自称じゃあまずいな。」と、京口へ赴いた時に孫権に直接謁見して都督荊州の職を願い出た。
このとき、周瑜と呂範はともに強く反対した。
「劉備は梟雄の気質を持つ。長く人の下に立つ者ではない。今、土地を与えれば、龍が雲を得て飛び立つようなものだ。池の中に収まる魚ではなくなるだろう。呉に留めておいたほうが良い。」
つまり、放し飼いにしたら飛んでいく猛禽扱いである。 しかし魯粛は一歩前に出て諫めた。
「劉備に一部の土地を貸すことで、前線の圧力を彼に負わせられます。
曹操への敵を増やすこと、それは我らの負担を減らすこと。味方を増やすことこそ、賢明な策です」
孫権はこの言を受け入れ、南郡の一部を劉備に正式に貸与し、劉備は公安を拠点として、そこを足がかりに蜀への進出を図った。
この決断が、孫劉同盟をつなぎ止め、江東の防衛線を厚くする礎となった。
だが、伝説では曹操がこの報を聞いて筆を落としたとされる。誇張かもしれないが、「びっくりした」のは間違いない。
魯粛のこの一策は、戦後外交という舞台で、孫呉の影響力を遠くまで伸ばす礎石となった。
周瑜の後任としての統治と軍事
建安十五年(210年)ごろ、周瑜は長い軍務の疲れから病に倒れた。
病床で、彼は孫権に上疏し、後任を推すべく魯粛を名指しした。
「曹操はいまだ北方に控え、劉備は公安に寄寓し、辺境の地は混乱のまま。魯粛は智謀に富み、この重責を担うに足る人物です」
別伝『江表伝』によれば、周瑜はさらに言葉を重ねたという。
「魯粛は忠烈にして、物事に臨むとき決して妥協しない。彼を後任とすれば国家は安定を保つだろう」
この遺言に孫権は従い、周瑜没後、魯粛を正式にその職に就けた。時は建安十五~十六年にかけてのことである。
孫権は魯粛を奮武校尉に任じ、周瑜が率いていた約四千の兵と奉邑四県をそのまま譲り受けさせた。また程普を南郡太守として配置し、魯粛の軍政を支える布陣を整えた。魯粛はまず江陵を拠点とし、のちに陸口へ本拠を移す。
軍事と行政、両方抱えて破綻しない人間は少ない。だが魯粛は珍しくその「両立可能な男」だった。威張るときはしっかり威張り、配るときは惜しみなく配る。そんな采配で兵と民からの支持率は右肩上がり。その結果、軍勢は急速に膨れ、一万人を超える大軍を擁するに至る。孫権はその功績を見過ごさず、漢昌太守・偏将軍に任じ、長江中流域の防衛を丸ごと預けることにした。
建安十九年(214年)、魯粛は孫権とともに皖城を攻略。合肥方面の魏勢力牽制の一環である。
この戦いで魯粛は主力将として活躍し、勝利を収めた後、横江将軍に昇進。長江防衛線の統括を任じられた。
益州問題と孫劉関係の緊張
周瑜がまだなくなる前、益州の牧・劉璋は「優柔不断という芸」を極め、統治も軍備も弛緩しきっていた。これを見た周瑜と甘寧は「今こそ益州を攻め取り、南方を統一すべきです!」と進言する。孫権も「いいね」と乗り気になり、劉備に同盟の名目で共に益州を討つよう提案した。
しかし、その劉備はすでに腹の中で「益州は俺の物」と決めていた。
表向きは涼しい顔でこう言う。
「劉璋は漢室の同族、義をもって攻めることはできません。
いま蜀・漢に戦を仕掛ければ、曹操に隙を与え、天下が乱れます」
孫権はその言葉に一応うなずいたが、劉備はしれっと蜀地に兵を進め、あっさり劉璋を討ち取って益州を掌握した。
建安十九年(214年)、この報に接した孫権は「狡猾なやつめ、詐欺と変わらなん」と嘆息したという。
劉備が益州を奪った後も、荊州の返還は頑として拒否。
荊州は戦略上の要衝、長江を制するうえで欠かせない土地だけに、孫権軍と劉備軍のあいだには緊張が走った。
魯粛は陸口に駐屯し、情勢を見極める一方、孫権にこうたびたび諫言した。
「関羽と不和を起こすのは得策ではありません」
一方、劉備は孫権の要求を華麗にスルーし続け、「涼州を平定したら返す」と言い逃れを繰り返した。
建安二十年(215年)、ついに孫権の堪忍袋の緒が切れる。
やっちまえと呂蒙に命じて荊州の三郡(長沙・零陵・桂陽)を攻撃させた。
呂蒙はわずかの間に三郡を制圧し、孫権の支配下に置いた。
これには劉備も仰天、「返せとは言われていたが、ほんとに取りにくるとは」と、今度は劉備が関羽に軍を率いさせ反撃に向かわせる。
両軍は荊州益陽で対峙し、武力衝突の危機に直面した。
こうして後に「単刀赴会」へと続く息詰まる外交ドキュメンタリーが開幕するのである。
益陽対峙と単刀赴会
建安二十年(215年)以降、孫権軍と劉備軍は長江に沿ってにらみ合い、お互いの矛先がいつ飛び出してもおかしくない空気が支配していた。
そのとき魯粛は、まず血を流さず事を解決しようと考えた。関羽との直接対話を申し入れたのである。
従兵が「死ぬぞ」と止める中、魯粛は胸を張って言った。
「今日こそ、きっちり話し合うとき。劉備が貸した領土をそのまま自分のものにするかは、まだはっきりしていない。 関羽も義を何より尊ぶ人だから、まさかいきなり刀の錆にするような事はしないでしょう」 かくして、彼は単刀(一本の刀)を携えて会見に臨んだ。これこそ後世に語られる「単刀赴会」である。
会談の場は、両軍が武装したまま百歩ほど隔てて設けられた。
魯粛は「国が土地を貸したのは、そなた達が敗戦して立つ場所を失っていたからだ。
今や益州を得ながら、荊州を返す意思もなく、三郡の返還さえ拒むとは何事か」と始める。
その場で、誰かが口をはさんだ。「土地とは、徳ある者のものだ」と。
魯粛は声を荒げて叱責し、関羽は刀を取り出し、「これは国家の事、他人が口を挟むべきではない」と言って、その者を退かせたという。
口を開いた魯粛と刀を出した関羽。どちらが冷静であったのかが分かる場面である。
『呉書』によれば、関羽はこう反論した。
「烏林の戦では、劉備は寝る間もなく鎧を着たまま魏軍と戦い、荊州を奪ったのだ。
なぜ一寸の地すら得られぬと言うのか」
魯粛はこれに対し、こう返した。
「長坂の折、劉備の軍はいまだ千に満たず、士気は瀕死でした。我が主は哀れみをもって土地と人材を与えた。
それを裏切り、恩を汚すとは凡夫のすることですらない」
すると関羽は最後まで反論できず、沈黙を続けたと伝わる。
この会談の後、両軍は一時の膠着状態に戻ったが、やがて曹操の漢中の張魯を侵攻が起こると、劉備は和議を求めた。
建安二十一年(216年)、諸葛瑾が仲介役となって「湘水の盟」が結ばれ、荊州の東西を分けて停戦が成立する。
魯粛の冷静な外交判断こそが、冷戦状態にあった孫権と劉備を再び落ち着かせたのである。
この「単刀赴会」は、ただの会見ではない。魯粛の胆力と理性を象徴する、三国志屈指の一幕である。
長沙の反乱鎮圧と死去
建安二十一年(216年)、曹操が魏王に封じられたのを合図に、孫権は濡須口で魏軍とにらみ合っていた。
だがその背後で、荊州南部に火種がくすぶり始めていた。
長沙郡の安成県令・呉碭、そして中郎将・袁龍が、「今ならイケる!」とばかりに関羽の後押しを受けて攸県・醴陵県で挙兵し、孫権政権への反旗を翻したのである。
孫権自身は北の曹操軍に備えるため動けない。そこで陸口で待機中だった魯粛に鎮圧を命じられる。
魯粛はすぐさま兵をまとめ、呂岱とタッグを組んで出撃して、益陽から南下し、呉碭の軍を打ち破った。呉碭は交州へ逃げ去り、袁龍は呂岱の手で討たれた。
こうして長沙の乱は鎮まり、荊州南部は再び規律を取り戻したのである。
建安二十二年(217年)、魯粛は長年の重圧と労役に体をすり減らし、ついに病に倒れた。
享年四十六歳。
孫権は深い悲しみに暮れ、自ら葬儀に臨んで弔意を表した。さらに、蜀の諸葛亮もこの訃報に接し、喪に服したと伝えられている。
魯粛の逸話
鄧禹と呉漢の例え
孫権が都を建業に移した後、群臣を集めて語った。
「私はかつて、魯子敬を鄧禹に、呂子衡(呂範)を呉漢に比した。今、その理由を知る者はあるか。」
臣の厳畯(嚴畯)が「その比喩は過ぎるのでは」と答えると、孫権は静かに説明した。
「鄧禹は光武帝がまだ志を立てぬ時に、帝業を興す決意を促した。
魯粛もまた、初めて私と語った折にすでに天下三分の策を説いた。
ゆえに、魯粛を鄧禹に比するのは正しいのだ。」
この言葉は、魯粛が呉国の基礎を築いた智臣であることを示している。
その先見と胆略は、孫権が帝王の道を歩む原点であった。
呂蒙との再会と「刮目相待」
魯粛はかつて呂蒙をただの武人と見下していたが、陸口へ向かう途中にその成長を知り、面会した。呂蒙は関羽との対峙策を理路整然と説き、魯粛は深く感服する。
「君はもはや呉下の阿蒙ではない」と言うと、呂蒙は笑って答えた。
「士別三日、刮目して相待つべし。」
この言葉は、努力と学問の象徴として後世に伝わる。
後世における魯粛の評価
陳寿は『三國志』で、魯粛を「若くして壮節あり、奇計を好む。家は富みながら、施しを好んだ」と評した。
また、「曹操が天子を擁して権勢を振るう中、周瑜と魯粛は独断の明をもって群を抜いた。実に奇才である」と称えている。
西晋の陸機も「周瑜・陸遜・魯粛・呂蒙は、内にあっては腹心、外にあっては股肱(国家を支える手足)であった」と述べ、
同時代の袁宏も「草莽から身を起こし、才をもって雲台を築いた」とその実力を讃えた。
南宋の陳亮は「三国の興亡の地にあって、諸葛亮が蜀を支えたように、魯粛・呂蒙・陸遜らも荊楚を舞台に名を挙げた」とし、
呉の発展を支えた中核として位置づけている。
清の思想家・王夫之はさらに深く論じ、「魯粛は孫氏と劉氏を結び、天下の均衡を保たんとした義の人である」と評した。
荊州問題の責を一身に負いながらも、なお孫権と劉備の和を望んだ彼の誠意を高く評価し、
「魯粛の死は関羽の敗、すなわち天下均衡の崩壊であった」と結んでいる。
魯粛という男、要するに「豪胆にして繊細、武断にして理詰め」という、理屈と胆力が異様に同居した不思議な存在だった。
戦場に書を持ち込み、礼を正しながら軍を動かす。しかも、それが驚くほど上手くいく。
剛と柔、武と文、理と情と、どれも突出しない代わりに、全部そこそこ高水準である。
その絶妙なバランスこそが、魯粛という人物の本質だった。
おそらく天下三分の策も、理想論ではなく、現実に耐えるための計算だったのだろう。
だからこそ彼は、豪傑たちが力でぶつかり合うこの三国時代にあって、「理性」で呉を支えたのである。
参考文献
- 三國志 : 呉書九 : 魯肅傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書二 : 吳主傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書七 : 張昭傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十 : 甘寧傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十五 : 呂岱傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書九 : 曹仁傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書十七 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書二十六 : 滿寵 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 蜀書七 : 龐統傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/卷065 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷066 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷067 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:魯粛 – Wikipedia
魯粛のFAQ
魯粛の字(あざな)は?
魯粛の字は子敬(しけい)です。
魯粛はどんな人物?
魯粛は質実剛健で学問を好み、施与を惜しまない義侠心の持ち主でした。外交と戦略の両面で孫呉を支えた人物です。
魯粛の最後はどうなった?
建安二十二年(217年)に病で亡くなりました。孫権は自ら葬に臨み、諸葛亮も弔意を示しました。
魯粛は誰に仕えた?
魯粛は孫権に仕え、呉の国家建設に尽力しました。
魯粛にまつわるエピソードは?
関羽との「単刀赴会」で堂々と正義を説いた逸話が有名です。また「榻上策」によって孫権の独立路線を確立しました。
総評
魯粛は、決して槍を振るう将ではなかった。だが彼の眼差しは常に戦場の先を見ていた。
赤壁の勝利は周瑜の火計によって語られるが、その火を灯した薪は、魯粛の大局観である。
もし彼が曹操の圧力を前に腰を引いていたら、もし劉備との共存を拒み、小競り合いに終始していたら。荊州は容易く北軍に呑まれ、江東はその延焼を免れなかっただろう。
戦わずして局面を保ち、秤を崩さぬことにこそ、魯粛の真価があった。
それは、声を荒らげずに乱世を渡るという、最も難しい「戦」のかたちだった。
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