- 1分でわかる忙しい人のための孫策の紹介
- 孫策を徹底解説!呉の礎を築いた「小覇王」の生涯
- 孫策と孫権の誕生:月と太陽を宿した姉弟伝説
- 孫策と周瑜:断金の交わり、その始まり
- 孫堅の死と、若き孫策の決断:譲った爵位と背負った遺志
- 張紘との邂逅:名士を口説き落とした孫策の涙と大志
- 涙の直訴と失望の始まり:袁術との駆け引きと丹楊行き
- 懷義校尉に任命され袁術軍内での存在感を高める
- 袁術の変節と孫策の失望:廬江太守の任命を巡って
- 劉繇との対立:孫氏宗親の排斥と長江をめぐる対峙
- 江東奪還計画、袁術から独立への布石
- 仲間が集い、船が進む:東渡大号令と軍勢膨張
- 江東侵攻と、思わぬ軍師:渡江作戦と蘆葦の筏
- 笮融を欺いた「死を偽装」作戦で形成逆転
- 孫策と太史慈の激戦:神亭嶺での一騎討ちと曲阿制圧
- 孫策、厳白虎・陳瑀連合を撃破:許昭を見逃した理由
- 会稽攻略戦:王朗の虚勢と孫静の奇策
- 戦功と人材収集:韓当・蔣欽・周泰、そして怪物董襲
- 袁術との決裂と江東支配の完成
- 将軍位と裏切りの代償:陳瑀の陰謀を粉砕
- 袁術の二十万大軍と呂布・関羽の共闘戦
- 曹操・孫策・呂布・劉備での袁術掃討戦
- 江東の盟友、周瑜と魯粛の登場:孫策が築いた最強の布陣
- 孫策危機一髪!程普の救出劇と周泰の奮戦
- 祖郎の降伏と太史慈の捕縛作戦
- 太史慈の信頼で結ばれた任務:六十日目の帰還と豫章の報告
- 袁術の最期と劉勳の勢力拡大
- 孫策の陽動作戦と皖城急襲
- 沙羡の戦い:黄祖との宿命の激突
- 虞翻の説得と江東六郡の平定
- 孫策最期の託宣:江東を託された若き二弟
- 人物評:江東を駆け抜けた若き覇者の光と影
- 参考文献
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1分でわかる忙しい人のための孫策の紹介
孫策(そんさく)、字は伯符(はくふ)、出身は呉郡富春、生没年(175~200年)
後漢末の群雄で、「小覇王」の異名を持つ。父は孫堅、弟に孫権。若年ながら軍才と人望に恵まれ、袁術から独立し江東を平定、後の「呉」建国の基礎を築いた。
周瑜との信頼関係、劉繇・太史慈・王朗・厳白虎らとの戦い、名士の登用など、治政と戦の両面で成果を挙げた。
しかし建安五年(200年)、狩猟中に刺客の襲撃を受けて26歳で死去。死の間際、弟・孫権に全権を託し、「呉」の礎を託した。
孫策を徹底解説!呉の礎を築いた「小覇王」の生涯
孫策と孫権の誕生:月と太陽を宿した姉弟伝説
呉郡富春に根を張る孫家は、江東の地で代々仕官してきた由緒正しい士族である。 だが、その名声は、いわゆる”上級国民”的な安定継承ではなく、一人の孤軍奮闘から始まった。 孫堅。後に”江東の猛虎”と呼ばれるこの男は、伝説の軍師・孫武の末裔と噂されつつも、平凡な家に生まれた叩き上げの男だった。
熹平四年(175年)、その長子として生まれたのが孫策である。 母は呉郡出身の名門・呉氏の女性で、ある夜、月が懐に入るという不思議な夢を見た直後に彼を出産したという。 あまりに神秘的すぎて、深夜の通販番組でも採用されそうなレベルの演出だが、これは当時においては「吉兆」とされ、貴族界隈でも割と本気で信じられていた。
さらにドラマチックな演出は続く。光和五年(182年)、孫堅が下邳の県丞として忙殺されている中、次男・孫権が誕生する。 その時の呉夫人の夢は「太陽が懐に飛び込んできた」だった。まるで中華風RPGの序章である。
「月と太陽、陰と陽、これはもうバランス感覚の極みだな……」と、当の孫堅は感慨深く呟き、「我が子らの未来はきっと華やかだろう」と語ったという。 この言葉、現代なら完全に”親バカ発言”として片づけられそうだが、結果的に彼の予言は当たることになる。
かくして、月を宿した兄・孫策と、太陽を抱えた弟・孫権。後に江東を席巻し、一時は天下三分の雄図を描くことになる兄弟の、神話的プロローグが幕を開けた。
孫策と周瑜:断金の交わり、その始まり
中平元年(184年)、黄巾の乱が全土に広がる中、朱儁の要請で孫堅が佐軍司馬に任命され、各地を転戦して黄巾賊討伐に従軍した。
この時、孫策は家族とともに九江郡寿春県に留まっていたが、まだ十代半ばにして淮南一帯ではすでに知られた若者だった。
中平六年(189年)、漢霊帝の崩御に伴い、政局は大きく揺れ動く。
長沙太守となっていた孫堅は、董卓討伐のため関東連合に加わる決断を下すが、その出征直前、運命の邂逅が訪れる。
廬江郡出身の周瑜が、わざわざ孫策に会うために単身で寿春までやって来たのである。
両者はともに熹平四年(175年)生まれ。わずか一ヶ月だけ孫策が年長ということで、互いに強く惹かれ合い、「これはただの友達じゃないぞ」という空気が流れた。
周瑜の助言で、孫堅は家族を廬江郡舒県に移住させることを決意。
出征に先立ち、息子・孫策に母と弟妹を引き連れて移住させる役目を託す。
そして周瑜は、なんと自宅の南側の邸宅を丸ごと彼らに提供。
呉夫人に対しては”升堂拜母”の礼を尽くし、以後は家族ぐるみの付き合いが始まる。
「義同断金」。刀で斬っても切れぬ絆とはこのこと。
孫策と周瑜は血を分けた兄弟以上の信頼関係を築き、衣食住を共にし、語らい、夢を語り合い、やがてその友情は歴史を動かす力となっていく。
孫堅の死と、若き孫策の決断:譲った爵位と背負った遺志
初平二年(191年)、孫策の人生は急転直下の幕開けを迎える。
父・孫堅が荊州牧・劉表を攻撃するも、襄陽の戦いで部下の黄祖に伏撃され、無念の戦死。享年三十七歳。
“江東の虎”と呼ばれた父の死は、家族にとっても、軍にとっても、そして十代の孫策にとっても衝撃だった。
しかし、時代は情けも猶予もくれない。
襄陽の地に放置された孫堅の遺体を、桓階という男が取り戻してくる。
かつて孫堅に推挙された恩を返すべく、敵地のど真ん中に単身乗り込み、劉表を説得。
「義」の一字で敵を動かしたその姿は、もはや人間というより忠義の化身である。
こうして遺体は返され、孫堅の棺は孫策の従兄・孫賁により故郷の曲阿に運ばれた。
だが、残された者たちの物語は、ここから始まる。
孫策と弟の孫権は、父の旧盟主・袁術の元に身を寄せる。
父の死によって空白になった兵権は孫賁に、爵位(烏程侯)は本来であれば孫策が継ぐはずだった。
しかし孫策はこれを辞退し、四弟・孫匡に譲るという決断を下す。
表面上は謙遜に見えるが、内心には「形だけの爵位より、実力で時代を動かす」という覚悟があったのかもしれない。
そして、この日から”自分の手で天下を掴む”という、孫策の新たな戦いが始まる。
張紘との邂逅:名士を口説き落とした孫策の涙と大志
初平三年(192年)、孫策は一家を率いて徐州の江都へと移る。
そこで出会ったのが、母を亡くし喪に服していた徐州の名士・張紘である。
孫策は兵も地盤も持たぬまま、ただ志だけを抱えて張紘のもとを何度も訪ねた。
「漢室は衰え、群雄割拠し、誰も国家を救おうとはしない。
父は袁氏と共に董卓を討とうとしたが、志半ばで黄祖に討たれた。
私は未熟な若輩ではあるが、その志を継ぎたい。
まず袁術に旧部隊の返還を求め、精兵の地・丹楊にいる舅の呉景を頼り、江東を拠点とし、父の仇を討ちたい。
それが朝廷を助ける道にもなると信じています。どうかご意見を賜りたい」
張紘は最初、「私は喪中でして……」と、まるで時代劇の門前払いのように辞退する。
しかし孫策は怯まない。「あなたの名声は海を越えて聞こえるほど。私の計画が成るも砕けるも、あなたの一言次第です」
涙をこぼしながら説き伏せる孫策。
そこにあったのは、ただの若者の意地や名声欲ではなく、まるで”復讐と正義のブレンド”を蒸留したような、熱すぎる情熱だった。
これに張紘の心も動く。
「今の乱世は、まるで周の衰えに現れた桓公・文公の時代。あなたが江東を制し、長江を背にして群雄を掃除すれば、功績は古の覇者に並ぶ。ぜひ南へ渡り、私も仲間を連れて支援しよう」
孫策は震えるように誓った。「一言為定。互いに誓いを違えぬように」
その場で、自らの母と弟妹を張紘に託すという大胆な行動に出た。
「どうか、私の家族をお任せします。私には、やるべきことがあるのです」
まだ軍も地盤もない若者が、ただその”志”一本で名士を口説き落とし、
同時に人生の背水の陣を敷く。これが、孫策という男のはじまりだった。
涙の直訴と失望の始まり:袁術との駆け引きと丹楊行き
初平三年(192年)、孫策は寿春に駆けつけ、袁術の前にひざまずく。
「父は董卓討伐で貴殿と誼を結んだ。だが志半ばで命を落とした。せめてその遺志を継ぎたい」と涙ながらに訴えた。
傍らには呂範と孫河のふたり。孫策はまだ若いが、その目には炎が宿っていた。
袁術はその火種に気づく。だからこそ、火消しの水を浴びせた。
「旧部隊?いや、丹楊に行け。舅の呉景、従兄の孫賁が待っておる」
口では好意を装い、実は独立の芽を遠ざける、それが袁術流だ。
孫策はしぶしぶ江都の母を連れて曲阿へ移り、呉景を頼った。
少人数ながら兵を募るが、運悪く涇県の山賊・祖郎に襲われ、あわや命拾い。
舅の忠告で、孫河・呂範と手を組み、ついに祖郎を撃破。
華やかに見える独立行、最初の一歩は血と泥と裏切りの味だった。
懷義校尉に任命され袁術軍内での存在感を高める
初平四年(193年)、朝廷の太傅・馬日磾が関東の安撫に赴き、寿春にて孫策を礼をもって召し出した。
このとき孫策は「懷義校尉」に任命され、名実ともに地方軍閥のホープとして地位を確立する。
孫策の器量はすでに袁術軍内でも知られており、橋蕤や張勳といった宿将たちでさえ彼に敬意を払っていた。
袁術もまた「もし自分に孫郎のような息子がいれば、死んでも本望だ」と、常々周囲に語っていたという。
そんな折、孫策配下の騎兵の一人が罪を犯し、袁術軍の陣営内に逃げ込む事件が起こる。
この兵士は厩舎に隠れていたが、孫策は配下を率いて袁術軍の陣に突入し、堂々と罪人を引き出してその場で処刑した。
事件後、孫策は袁術の陣営に赴き、事の経緯を説明したうえで謝罪したが、袁術は「兵士の裏切りなど当然のことだ。
処罰して何の問題がある」と一蹴し、その毅然たる行動にさらに信頼を寄せた。
この一件により、袁術配下の将兵たちは孫策を一目置き、むやみに侮れぬ存在として見るようになる。
若き孫策は、着実にその名を軍中に轟かせていった。
袁術の変節と孫策の失望:廬江太守の任命を巡って
袁術という男、見た目は貴族、中身はカメレオン。
昨日の約束を今日の気分で破棄する。そんな彼の気まぐれに、またしても孫策が振り回された。
当初、袁術は孫策を九江太守に任じると口約束していた。
だが、気が変わったのか数日で撤回し、代わりに地元の丹楊人・陳紀を起用。
この一件で孫策の中に不信の芽が芽生える。
その後、袁術が徐州に遠征するにあたり、廬江太守・陸康に軍糧三万斛を要求。
しかし陸康はこれを拒否した。袁術は激怒し、ちょうどよく鬱憤を晴らす手駒として孫策を使うことにした。
孫策にも私怨があった。かつて陸康を訪れた際、主簿が対応に出てきたが、本人は姿を見せず。
礼節を重んじる時代において、これは明確な軽視。
心の奥底で「見てろよ陸康」と思っていた彼にとっては、正当化された戦いだった。
そこで袁術は言った。「前に陳紀を使ったのは後悔している。
今度こそ廬江を落としたら、お前に任せたい」。
その言葉に背中を押された孫策は出陣し、見事に廬江を平定する。
だが、待っていたのは裏切りだった。袁術はまたもや気が変わり、自分の古参である劉勳を廬江太守に任命したのだ。
孫策は、怒りを通り越して呆れた。どれだけ尽くしても信頼されない。
この一件で、彼の中で袁術という人物の評価は地に落ちた。
劉繇との対立:孫氏宗親の排斥と長江をめぐる対峙
興平元年(194年)、中央政府が派遣した正統の刺史・劉繇が、名ばかりの地位を与えられた。
漢献帝の命により亡き陳温の後任として揚州刺史に任命されたものの、肝心の州治である寿春は既に袁術の勢力下。
仕方なく、孫策の舅・呉景と従兄・孫賁が袁術の命で彼を南へ導き、曲阿へ迎え入れる。こうして劉繇はようやく州刺史らしい体裁を整えた。
袁術としては、彼を味方につけて損はないと考えたのか、あっさり「自称刺史」の肩書を手放し、劉繇を正規の刺史として扱うことにした。
が、信頼と警戒は表裏一体。
劉繇は思った。「袁術の身内に囲まれて、このまま州を乗っ取られるかもしれない」。
恐れた彼はすぐに手を打つ。味方を装っていた呉景・孫賁を「不審人物」として追放。情など爪の垢ほどもなかった。 劉繇は、樊能・于糜を横江津に、張英を當利口に配して、長江を挟んでの防衛線を築く。
まるで「これ以上近づくな、仲良くしてたのは間違いだった」とでも言いたげな布陣だ。
袁術も黙ってはいない。すぐに腹心の惠衢を「新たな揚州刺史」に据え、呉景を督軍中郎将に任じて孫賁と共に反撃に出る。
だが戦局は泥沼。膠着状態が一年以上も続き、一向に進展しない。
義理の関係も、同族の絆も、戦場では役に立たない。
誰が味方で、誰が敵か。長江の水よりも見通しにくい戦が続いていた。
江東奪還計画、袁術から独立への布石
袁術のもとに身を寄せていた孫策に対し、古参の朱治が「袁術は信用ならぬ。いっそ父祖の地・江東へ戻ってはどうか」と進言する。
孫策も腹の内では同感だったが、問題は”口実”と”兵”である。
名目上は、舅・呉景を救援するという体で、孫策は袁術の元を訪れる。
「我が家は江東に恩がある。舅のために横江を討ち、その後は江東で兵を募り、三万の軍をもって将軍をお助けしたく存じます」。
要するに、”出兵したいから旧部隊を返してくれ”という話である。
袁術は薄々感づいている。「こいつ、俺から離れようとしてるな」。
だが一方で、江東にはまだ劉繇、厳白虎、王朗といった地元の大物がゴロゴロしており、孫策の成功は未知数。
ならば、という打算で、渋々承諾する。
袁術は孫策を「行殄寇将軍」として推挙し、形式上の肩書とともに、千名強の兵と物資を与えた。
馬は数十匹、呂範の家臣たちも一括で孫策の指揮下に入る。
この時点で孫策の頭にあったのは、「父の遺志」と「個人的な独立」の二文字である。
名目は”他人のため”、実際は”自分のため”。
後の”江東の小覇王”による、鮮やかな独立戦争の火蓋が切られた瞬間だった。
仲間が集い、船が進む:東渡大号令と軍勢膨張
孫策はついに袁術から、父の旧臣たち、程普、黄蓋、韓当、朱治らを引き取ることに成功する。
さらに一族の孫河、孫賁、孫輔、徐琨、そして実弟・孫権も加わり、身内の布陣が完成。
舅・呉景の駐屯地である歴陽を目指す道中、その風貌に惹かれたのか、あるいは時勢を読む嗅覚か、各地の有志が次々と馳せ参じる。
蔣欽、周泰、陳武、呂範、鄧當、呂蒙、凌操、宋謙。これだけ顔ぶれが揃えば、
さながら”孫呉オールスター前夜祭”の様相である。
到着時点での兵力は、もはや五~六千。孫策の軍は、絵に描いたような膨張気流に乗っていた。
母・呉夫人も曲阿から歴陽に合流。孫策は母を阜陵へ移し、これにて”背中の守り”は完了する。
あとは前進あるのみ。渡江してからの進撃は、どこかがおかしいくらいスムーズだった。
対抗勢力は次々崩れ、誰も孫策の軍に正面から立ちはだかろうとしない。
何より特筆すべきは、軍紀の厳しさと民衆の支持である。
当時の地方軍閥は、民を略奪しながら進軍するのが常だったが、孫策軍にはそれがなかった。
だからこそ、”軍なのに歓迎される”という奇妙な現象が起きたのである。
この戦いを支えたもうひとつの影の主役、それが周瑜だ。
孫策が出兵を知らせると、即座に兵五百を率い、船・食糧・兵器一式をフル装備で提供。
まさに”突撃副官”そのもので、夜を徹して孫策のもとへ馳せ参じた。
再会した孫策は、まるでプロポーズのように言い放つ。
「おまえが来てくれたから、すべてうまくいく」。その眼差しに迷いはない。
さらに名士たち、張昭、張紘、秦松、陳端を自らの足で訪ね歩き、次々と迎え入れる。
“孫策軍”が”孫呉政権”へと変貌していく、その転換点がここにある。
江東侵攻と、思わぬ軍師:渡江作戦と蘆葦の筏
興平二年(195年)、呉景と孫賁が劉繇と戦っているところに、孫策が加勢した。
長江を越えて、いよいよ江東の攻略が始まる。
そのそばには、ひとりの弟がいた。 孫権。まだ若かったけれど、軍の運営や政治の話になると、兄の孫策よりも鋭い意見を出すこともあった。
「こいつ、俺より賢いかもな」 孫策は内心ちょっと驚いて、酒の席ではよくこう言っていた。 「そのうち、みんなお前の部下になるだろうよ」
さて、戦線の先頭に立った孫策は、まず樊能・于糜を撃破し、さらに当利で張英を奇襲。
これで長江渡河のための重要ルート2つを確保したのだが、ここからが悩ましい。
兵は揃った、勢いもある、しかし船が足りない。
思いがけず軍議の場で声を上げたのが、孫堅の妹であり、徐琨の母である女性だった。
「蘆を刈って筏を編んで、さっさと渡るんだよ」と息子の徐琨経由で孫策に伝えると、孫策は即断。
「やろう!全軍、蘆を刈れ!」と大号令。奇策である。
結果、蘆で編んだ筏と少ない船を組み合わせて、孫策軍はスピード渡河に成功。
水軍を頼みに構えていた劉繇の意表を突き、孫策軍は長江南岸へと突入した。
渡った直後から攻勢を強め、牛渚の劉繇は兵器も食糧も全て捨てて撤退。
孫策の進軍は、策略と家族の直感の合わせ技で、また一歩前進した。
笮融を欺いた「死を偽装」作戦で形成逆転
孫策が長江を越えたあとの江東は、まだ一枚岩ではなかった。
彭城相の薛礼と、下邳相の笮融(さくゆう)はともに劉繇を盟主に担ぎ上げ、それぞれ秣陵(南京)に陣を敷いていた。孫策の初戦は笮融。
一戦で五万以上の兵を討ち取ったというから、血の雨とはまさにこのこと。
ビビり散らかした笮融は、門を閉じてガタガタ震えるだけである。
次いで薛礼を攻め落とした頃、先に敗走した樊能・于糜の残党が反撃を企ててきた。
1万人規模で牛渚を奪還しようとしたが、孫策がすぐに引き返して撃破。
結果、また1万人を捕虜に。おいおい、人数どうなってんだ。
この間に、笮融はますます殻にこもり、門すら開かない。
だが、孫策はただの武闘派ではない。ある日、敵の目を欺く奇策に出た。
その名も「孫郎は死んだ作戦」。
戦傷を負った孫策が療養していたのを逆手に取り、「孫策、戦死したらしいぞ」という噂を流布。敵の出撃を誘ったのだ。
「孫郎が死んだ!」この一言に、敵は踊らされた。
笮融は小規模な兵を出して様子見に出撃。孫策軍はわざと潰走したように見せかけ、敵が深追いしたところを伏兵で包囲、一千人以上を斬り捨てる。
そして本隊が敵陣へ迫るや、孫策は叫ぶ。「孫郎はどうだ!」
地鳴りのような声に、敵陣はパニック。夜のうちに脱走者続出。
孫策の生存を知った笮融は、それ以降、深く堀を掘り高く垣を積み、ガチガチに防備。
もう殻を割る気はさらさらない。
こうなると孫策も見切りをつける。笮融の立地は堅牢すぎて無駄が多い。
彼は矛先を変え、劉繇の別働隊が駐屯する海陵(今の泰州)を攻め落とし、次に湖孰、江乗と立て続けに陥落させる。
この戦役で最も功績が大きかったのが、古参の将・程普。
報奨として兵2,000人と馬50頭を加増された。
武でも智でも、孫策軍は破竹の勢いで江東を飲み込んでいく。
孫策と太史慈の激戦:神亭嶺での一騎討ちと曲阿制圧
孫策はまず曲阿を確保し、ここをもって劉繇との「曲阿の戦い」に挑む。
彼は劉繇軍を打ち破り、続いて神亭嶺で斥候として来襲していた太史慈と遭遇。
この時点で戦いの流れは、ほぼ孫策の有利が決定的だった。
次いで太史慈との一騎討ちに突入。孫策側は程普や黄蓋ら十三騎、太史慈は単騎。
互いに百合を超える激闘を展開し、孫策が手戟を奪えば、太史慈は兜を奪い返す。
激しい打ち合いの末、勝敗はつかず。だがその熱さは周囲の軍の士気を奮い立たせた。

戦後、劉繇は丹徒を放棄し西へ退却。山中へ潜伏しながら「自称・丹楊太守」を名乗り始める。
この時点で孫策は宣城以東を統治下に置いていたが、涇水以西の六県は未だ従属せず。
この局面で孫策が採ったのは”優しい詔勅”。
降伏者には咎めず、志願者には兵への参加と共に一家族全員の租税・労役を免除。
後に兵士は2万人超、軍馬は1000頭を超えるほど集結。短期勝負にも関わらず、その人口動員は圧巻だった。
さらに、朱治が銭唐より出兵して呉郡に進攻する。
呉郡太守・許貢は由拳で抵抗したが敗北し、厳白虎に逃げ込む羽目に。
孫策の勢力はさらに拡大し、呂範にも2000兵と50騎を増配。ここに至り、軍団は1万人規模に膨れ上がった。
こうした状況を踏まえ、孫策は周瑜にこう告げる。
「この軍勢で呉郡と会稽、さらには山越紛乱の鎮圧も可能。君は先に丹楊を守ってくれ」
これを受けて周瑜は丹楊へ戻り守備体制を整える。
ところが、袁術はこれらを見て警戒し、族弟・袁胤を差し向けて丹楊太守に任命する。
周瑜とその叔父・周尚は撤退を余儀なくされ寿春へ戻ることになる。
ここに至って孫策の盤石な布陣とは裏腹に、周辺の権力構造は激しく揺れていた。
孫策、厳白虎・陳瑀連合を撃破:許昭を見逃した理由
建安元年(196年)、孫策はまず呉郡の厳白虎を狙った。この男、数万のゴロツキを抱えて各地で好き放題暴れ回るくせに、当人に大志なんてものはなく、ただ騒ぎたいだけの輩である。
呉景ら将軍が「まず厳白虎を倒すべき」と進言すると、孫策は「やつらに大志はない。一戦で捕らえられる」と一笑に付した。
やがて孫策軍は銭唐江を渡り呉郡へ進攻。東冶を落とすと、厳白虎は自称呉郡太守の陳瑀(陳登の同族の叔父)と組み、対抗の構えを見せた。孫策はまず呉景を先鋒に立て、厳白虎軍を大破。逃げ込んだ厳白虎は会稽で高塁を築いて籠城し、弟の厳輿を使者に立てて講和を求めてきた。
面会の場で孫策はいきなり刃を抜き、机を斬りつけて度胸を試す。驚いてよろめいた厳輿に「座ったまま跳ね上がれると聞いたから試しただけだ」と笑うと、「刃を見たら反射的に…」と返す厳輿。その瞬間、孫策はこいつが臆病だと見抜き、ためらわず手戟で刺し殺した。
弟を殺された厳白虎は恐れをなし、余杭へ逃亡して許昭を頼った。ここで程普が追撃を進言するが、孫策は「許昭は旧主に忠義を尽くし、旧友に誠実な男だ。そういう相手を斬る趣味はない」と言い、追撃をやめさせた。義を重んじる判断は、武力一辺倒の将軍とは一線を画すものだった。
その後、孫策は江東各地を駆け回り、鄒他・銭銅・王晟・厳白虎ら残存勢力を次々に撃破。厳白虎は逃亡し、呉郡は孫策の掌中に収まった。会稽攻略への道筋が、ここで確実に開かれたのである。
会稽攻略戦:王朗の虚勢と孫静の奇策
会稽太守・王朗。理屈は立派だが、実際の戦場では”聞く耳”を置き忘れてきたらしい。 部下の功曹・虞翻は「孫策は兵を扱うのが抜群です。真正面からやり合うのは危険です」と進言したが、 だが王朗は「ふん、来るなら来い」と言わんばかりに固陵で待ち構える。。
孫策は何度も水を渡って攻めたが、城はまるで亀。そこで叔父の孫静が口を開く。 「正面突破は骨が折れる。だが南へ数十里、会稽への要衝・査瀆を抜けば、やつらの背後を突ける。 総大将は私が務めよう。必ず城を落とせる」まさに攻其不備、出其不意の策である。
孫策はこれを受け入れ、全軍に向けてわざとこう布告した。「このところ雨続きで水が濁り、 兵の腹具合が悪い。瓦缶を数百用意して水を澄ませよ」。こっちは動かないよアピールしつつ、 夜になり、密かに査瀆道へ兵を進める。狙いは高遷の屯営。
王朗は虚を突かれ大慌て。旧丹楊太守の周昕らを差し向けるも、 孫策軍はこれを撃破し、周昕を討ち取った。会稽は陥落し、王朗は東冶へと敗走。 虞翻は王朗に付き従い逃げたが、孫策の追撃で再び敗北。
城を落とした孫策は、張昭を使い王朗を説得するが、王朗は頑なに首を縦に振らない。 それでも孫策は虞翻を功曹に任じ、友人として遇した。勝者の余裕とは、こういう時に光るものだ。
戦功と人材収集:韓当・蔣欽・周泰、そして怪物董襲
孫策の軍は戦うたびに駒が増える。韓当・蔣欽・周泰、この三人は征討で結果を叩き出し、 そろって別部司馬に昇格、しかも兵まで支給された。要するに「ほら、お前らこれでまた働け」ということだ。
そこへ会稽出身の董襲が高遷亭で孫策を出迎える。第一印象は「なんだこの体格」。 ただの大男ではなく、妙に人を惹きつける迫力がある。ちょうどその頃、山陰で黄龍羅と周勃という賊が数千を集めて暴れていた。 孫策は「面白い、新入りの腕試しだ」とばかりに董襲を引き連れて出陣。董襲は見事に二人の賊頭を討ち取り、別部司馬に即昇格。 兵も数千増やされ、肩書きは揚武都尉。孫策の「使えるヤツは即昇格」の方針がよくわかる一件だ。
この時点で孫策は丹楊・会稽・呉郡の三郡を押さえ、地盤はほぼ完成。 一方、15歳の孫権はというと、朱治により孝廉に推挙され、さらに厳象に茂才として推されて陽羨長に就任。 兄の補佐役として奉義校尉代理も務めるという、年齢不相応な肩書きを早々に獲得していた。
やがて孫策は後漢朝廷への貢納を開始。使者の劉由と高承を許都へ派遣して朝廷に礼を尽くす。 このとき派遣された漢の使者・劉琬は孫権をひと目見て、「孫家の兄弟は才気あふれるが短命に見える。 ただ、この次男だけは骨格が違う。長寿で大きな器になるだろう」と占うように語った。 実際、孫策26歳没、孫翊21歳没、孫匡20代半ば没の中、孫権だけが71歳まで生き、弟子たちに「ほらな」と言わせたのである。
袁術との決裂と江東支配の完成
建安二年(197年)、あの袁術がついにやらかした。 伝国の玉璽を握りしめ、「俺こそ皇帝だ」と名乗ってしまったのである。
孫策はここで袁術に最後の情けをかけるべく、張紘を使者として派遣。 「帝位僭称はやめるべきだ」と諫めたが、聞く耳を持たない。
「じゃあもう縁切りだ」と、孫策は袁術陣営にいる親族や旧友に書簡を送り、離反を促した。 呼びかけに応じたのは、舅の広陵太守・呉景、堂兄の丹楊都尉・孫賁、族兄の汝南太守・孫香、そして周瑜であった。 有能な人材が一気に帰ってくるこの流れ、袁術にとっては悪夢だったに違いない。
結果、袁術は江東での影響力を大きく削がれた。
一方、丹楊では袁術の族弟・袁胤が依然として太守の地位を保っていたが、孫策は表兄・徐琨を派遣してこれを排除させた。
しかし丹楊は古くから精兵を産する重要拠点であり、徐琨が兵を増やしすぎたことを孫策は警戒する。 結局、徐琨は督軍中郎将として兵権のみを保持させ、太守職は舅の呉景に交代させた。
呉景は丹楊での人望が厚く、郡民も素直に服従したため、この人事は円滑に進んだ。
徐琨は後方の山越対策に回される。
堂兄の孫賁も帰還し、この時点で孫策は呉郡・会稽・丹楊の三郡を掌握。 袁術は広陵と江東の支配を同時に失い、華南での政治的影響力は急激に低下した。
族兄の孫香は帰還を望みながらも病で寿春にて没し、再会は叶わなかった。 こうして孫策は袁術との関係を完全に断ち切り、江東支配の体制を固めることに成功した。
将軍位と裏切りの代償:陳瑀の陰謀を粉砕
同年(建安二年・197年)夏、朝廷から動きがあった。 曹操が議郎・王誧を通じて詔書を送り、孫策を騎都尉に任じ、父の爵位である烏程侯を継がせ、さらに会稽太守を兼ねさせたのである。 しかし孫策、内心こう思っていた。「いや、騎都尉って…地味じゃない?」 彼としては将軍号が欲しい。威厳ってやつである。
そこで王誧にそれとなく希望を漏らすと、王誧はすぐさま皇帝名義で「代明漢将軍」に昇格させた。 孫策は即座に表を奉り、朝廷への感謝を表明。そして呂布、陳瑀らと共に袁術討伐を進めるべく軍議に入った。 …まではよかった。
ところが出兵準備を整えて銭唐に着いたあたりで、空気が一変する。 なんと陳瑀、この討伐戦を利用して孫策の領土を横取りしようと企んでいたのだ。 彼は密かに江を渡らせた使者に三十余りの官印を持たせ、宣城・涇県・陵陽・始新・黟県・歙県の賊首・焦巳や、呉郡の厳白虎らへ配布。 「孫策の軍が動いたらすぐ攻め込め」という内応作戦を仕掛けていた。
この裏切りを知った孫策、当然ながらブチ切れた。 即座に呂範・徐逸へ兵を託し、海西(今の江蘇灌雲)へ突撃。 結果は一方的な勝利で、陳瑀の将兵や妻子を含む四千余人を捕らえた。 陳瑀本人は北へ落ち延び、袁紹を頼る羽目になった。 まさに「人のふんどしで相撲を取ろう」とした代償を、身をもって払うことになったのである。
袁術の二十万大軍と呂布・関羽の共闘戦
袁術は建安年間、野心を剥き出しにして二十万の大軍を動員。総大将には張勳を据え、呂布を徐州で叩き潰す作戦を開始した。
軍は七つの方面軍に分かれ、張勳が中軍、橋蕤・雷薄・韓暹が左翼、陳紀・陳蘭・楊奉が右翼を担当。小沛、沂都、琅琊、碣石、下邳、浚山など、それぞれの標的が割り振られていた。 袁術軍は一日二十里ずつ進軍しつつ、通過する村々を容赦なく劫掠。住民からすれば「来ないでほしい軍隊ランキング」堂々の一位である。
呂布の耳にもこの情報はすぐ届く。陳宮は「これは陳珪と陳登が招いた災いだ」と詰るが、陳登は笑って「臆病ですね」と切り返し、撃退の策を披露。呂布はこれを受け入れ、朝廷にも対応策を上奏した。 やがて呂布は自ら追撃し、袁術本隊と遭遇する。金色の甲冑をまとい、両腕に二刀を懸けた袁術が馬上から怒鳴り、部将の李豊を差し向けた。だが三合もせぬうちに李豊は負傷して槍を捨て逃走。
その隙に呂布軍が突撃し、袁術軍は総崩れ。甲冑も馬も捨てて潰走する。逃げ延びようとした先には、よりによって関羽の軍が待ち構えており、袁術軍はさらに壊滅的な損害を受けた。袁術はわずかな手勢と共に命からがら退却する羽目に。
勝利した呂布は関羽、さらに裏切って帰順した韓暹・楊奉と共に徐州へ帰還。祝勝の宴を開き、楊奉を琅琊牧、韓暹を沂都牧に推挙した。陳珪の助言に従い、二人はすぐさま任地へ赴き、戦後処理に当たった。
曹操・孫策・呂布・劉備での袁術掃討戦
袁術は徐州で呂布に敗れた後も、しぶとく生き延びていた。だがその末路は、曹操・呂布・孫策という三方向包囲網の完成で一気に暗転する。
食料も底をつき、やることといえば陳留の村々を荒らしまわるだけ。
この動きに業を煮やした曹操は自ら出陣し、劉備・呂布・孫策へ「一緒に叩こうぜ」と招集をかけた。
三軍は合流し、曹操が中軍、呂布が左翼、劉備が右翼、夏侯惇と于禁が先鋒を務める布陣。
袁術軍の先鋒・橋蕤が寿春の手前で夏侯惇と激突するが、わずか三合で討ち取られ、兵は城へ逃げ込んだ。
やがて西方から孫策軍も迫り、四方から城を包囲する態勢が整う。
曹操は北面、劉備は南面、孫策は西面、呂布は東面を攻める完全包囲戦だ。
追い詰められた袁術は、李豐・樂就・梁綱・陳紀ら十万を残して寿春を守らせ、自らは財宝を抱えて淮河の向こうへ逃亡。
しかし守る側も状況は楽ではない。周囲は数年続きの飢饉で、援軍も食料も望めない。
曹操軍もまた食料不足に悩まされ、やむなく孫策から米十万斛を借り入れる。
その後、連日の総攻撃で城門が破られ、李豐ら四名は生け捕られて公開処刑。
袁術の築いた豪奢な宮殿や宝物庫は焼き払われ、寿春は徹底的に略奪され尽くした。
肝心の袁術は捕まらず、三軍はそれぞれ領地へと引き上げていった。
こうして、彼の南方での影響力は完全に潰えた。
江東の盟友、周瑜と魯粛の登場:孫策が築いた最強の布陣
建安三年(198年)、周瑜は情勢を見切った。
西北では曹操、東北では呂布と劉備が袁術を挟撃し、その勢力はもはや風前の灯火。
「沈む船に乗り続ける趣味はない」とばかりに、周瑜は居巢から東へ渡り江東へ向かった。
その隣には、出会って間もない魯粛の姿もあった。家族は曲阿に残し、二人はほぼ身軽な状態での合流だった。
孫策はこの知らせを受けると、自ら出迎える厚遇ぶり。
着くやいなや周瑜を建威中郎将に任じ、二千の兵と軍馬五十匹、さらに軍楽隊までセットで与える。
「家も庭も用意してやれ!」と命じ、待遇は配下随一。
周囲の将たちが軽く嫉妬するレベルである。
そして孫策は皆の前でこう言った。
「周公瑾の才は並ぶ者がない。幼い頃からの付き合いで、兄弟のような情がある。丹陽での大仕事だって、人や船や糧を集めてくれたのは彼だ。この恩は、この程度の褒美じゃ足りぬくらいだぞ!」
この一言で、周瑜の地位は一気に不動となった。
その席で周瑜は「彼も使うべきだ」と魯粛を推薦。
孫策は魯粛の見識に感心し、すぐにでも登用する気でいたが、
ちょうどその時、魯粛の祖母が病で亡くなり、故郷の東城に帰って葬儀に専念することとなった。
同年、孫策は再び許都の朝廷に贈り物を献上。
その規模は建安元年(196年)の倍に達し、
袁術討伐の功績もあって討逆将軍・呉侯に封じられる。
江東における孫策の地位は、さらに揺るぎないものとなった。
孫策危機一髪!程普の救出劇と周泰の奮戦
同年(198年)、袁術は江東の背後を突くため、山越勢力に目をつけた。 おまけに山賊頭領の祖郎に印綬まで渡し、連合軍を仕立てて孫策を包囲しようとする。
だが程普はたった一騎で重囲を突き破り、戦矛を振り回しながら孫策のもとへ一直線。程普に引きずられる形で孫策も突破成功、命拾いしたのである。戦後、孫策は感謝のしるしに程普を盪寇中郎將・零陵太守に任命した。
一方、太史慈は涇県に屯営を築き、山越を取り込み始めていた。孫策は周瑜・孫輔・呂範・程普らを率い再び祖郎討伐へ出撃。留守の宣城には弟の孫権と護衛の周泰、兵数百を残したが、士気は底冷え状態。 城の防備もお粗末なまま、山越首領・潘臨が数千を率いて襲撃してきた。
城内はパニック。だが周泰だけは眉ひとつ動かさず、「慌てても死ぬ、冷静でも死ぬなら後者でいこうか」とでも言いたげに動き回り、孫権を守って戦線を維持する。 彼の異常な冷静さと豪胆さが周囲の兵を鼓舞し、逆襲に転じて山越を撃退。戦後、孫策は周泰の全身十二カ所の刀傷に驚き、春谷県長に任命した。孫権は命拾い、周泰はしばらく包帯ミイラ生活である。
祖郎の降伏と太史慈の捕縛作戦
孫策は陵陽で祖郎を捕縛。孫策は「昔お前に斬られかけたが、今は天下の人材が欲しい。過去は水に流す」とあっさり許す。 祖郎は感涙し、そのまま門下賊曹に就任することとなった。
続いて孫策は勇里の太史慈へ照準を合わせる。
周瑜が進言したのは「無中生有」作戦。三方から攻め、一方だけわざと開けておき、逃げ道に見せかけて伏兵で捕らえるというものだ。
案の定、東門から逃げた太史慈は見事に捕縛。孫策は自ら縄を解き、「神亭嶺で出会った頃、お前が俺を捕らえてたらどうした?」と笑いながら問う。
太史慈は「わからぬ」と答え、孫策は「なら今日から一緒にやろうぜ」と握手。太史慈は門下督となり、兵権を与えられた。
こうして祖郎と太史慈は前軍を任され、孫策軍は胸を張って呉へ凱旋。戦功と人材の両取りに成功し、軍の士気はまさに最高潮であった。
太史慈の信頼で結ばれた任務:六十日目の帰還と豫章の報告
建安四年(199年)、劉繇が病に倒れるや、豫章の民と旧臣たちは「この人しかおらん」とばかりに華歆を新たな盟主に担ぎ上げ、太守府の前で何か月も居座った。
だが当の華歆は「いやいや、朝廷からの正式任命もないのに受けられるか」と涼しい顔。結局、民衆は説得され、しぶしぶ家へ帰る羽目になった。
そんな状況を聞きつけた孫策は、太史慈を豫章へ送り出す。「劉繇の息子・劉基を見舞い、旧軍一万余を慰めよ。ただし、来たければ来い、嫌なら無理強いはせぬ」と条件はあっさり。さらに「ついでに華歆がどんな器かも見てこい」と偵察任務まで押し付けた。
出発前、太史慈は「六十日で戻る」と豪語。配下の将たちは「いや、あれはもう帰ってこないやつだ」と疑ったが、孫策だけは「子義(太史慈)は裏切らん」と妙に自信満々だった。
そして約束通り、太史慈は六十日目に帰還。華歆は徳こそあれ、攻める気もなく、各地の反乱にも関与していないと報告。ついでに劉繇旧軍の多くを孫策の麾下に加えることに成功した。
孫策はこの働きを大いに称え、太史慈を折衝中郎将に任命。二人の間には「命預けてもいい」級の信頼が芽生え、この一件は呉陣営の美談として語り継がれることになる。
袁術の最期と劉勳の勢力拡大
建安四年(199年)寿春にいた袁術は蜜水すら得られず、ついに吐血して没した。
袁術の死後、長史の楊弘と大将軍の張勲は残兵を率いてかつての同僚・孫策に投降しようとしたが、廬江太守の劉勳に阻まれ、全軍捕らえられる。 また、袁術の族弟・袁胤、その子・袁耀、娘の袁夫人と婿の黄猗ら一族も、曹操の威勢を恐れて寿春を離れ、棺を担いで家族や部曲を連れ、皖城の劉勳を頼った。
劉勳はこの一行を受け入れて兵力を増やしたが、急増した人数に見合う糧食はなく、たちまち食糧不足に陥る。 そこで堂弟の劉偕を豫章太守・華歆のもとに遣わして借糧を依頼するが、華歆も余裕がなく、やむなく海昏や上繚の旧劉繇軍に借用を命じた。 劉偕は一か月以上を費やし、三万斛の目標に対しわずか二千斛を得たのみで帰還し、劉勳に報告するとともに、軍を率いて直接攻め取ることを進言した。
孫策の陽動作戦と皖城急襲
建安四年(199年)、周瑜は舒城で兵を鍛え、牛渚を備えたのち春谷県長を務めていた。
ちょうどその頃、孫策は荊州の黄祖討伐を準備していたが、目の上のたんこぶがもう一ついた。廬江太守・劉勳である。兵力は多く、下手に育てれば将来の脅威。ここで孫策の頭に浮かんだのは「敵を動かして背後を空にさせる」策だった。
孫策は手紙を送り、上繚攻めを持ちかける。「あそこは肥えた土地だ。あんたが攻めれば俺が外から支えるぜ」と、まるで善意の同盟者を装う。劉勳はすっかりその気になり、家臣たちは財宝の夢に酔いしれる。しかし一人だけ浮かない顔があった。劉曄である。
「上繚は固い。攻めは時間がかかる。城外に兵を出せば国内は手薄。孫策は必ず突いてくるぞ」と忠告するが、劉勳は聞かない。こうして劉勳は海昏へ向け進軍した。
孫策の読み通り、廬江はがら空きとなった。孫策は堂兄の孫賁・孫輔を彭澤に置き、帰路を塞ぐ準備を整えると、自らは周瑜と共に兵二万を率いて皖城へ直行。一気に城を落とし、劉勳の妻、袁術の妻、そして名高い「江東二橋」こと大喬・小喬ら三万人余を捕らえた。大喬は孫策、小喬は周瑜の妻となる。
城を固めるため李術を廬江太守に任じ三千兵を与え、周瑜は巴丘に駐屯した。
一方、海昏を空振りに終えた劉勳は慌てて帰還するが、彭澤で孫賁・孫輔に阻まれ大敗。命からがら楚江へ退き、さらに尋陽、置馬亭、西塞を経て流沂へと逃げ、最後は曹操を頼った。
孫策は廬江を掌握すると、功のあった陳武を別部司馬に任じ、廬江出身の精鋭「盧江上甲」を与えた。この部隊は鍛え抜かれ、後に敵をして恐れさせる呉の強兵となる。
沙羡の戦い:黄祖との宿命の激突
同年十二月辛亥(200年1月11日)、孫策は西へ進軍し、江夏の沙羡に到達した。目の前に立ちはだかるのは、父・孫堅を討った宿敵、黄祖。
「この借り、きっちり返す」とばかりに、二弟の孫権、盟友周瑜、腹心呂範、老将の程普・黄蓋・韓当らを従え、宿怨を胸に突撃する。
劉表は甥の劉虎と南陽の韓唏に五千の長槍隊を託し、黄祖を救援。しかし戦場では孫策軍の勢いが嵐のように吹き荒れ、黄祖軍はなす術もなく崩れた。
韓唏は討ち取られ、黄祖は命からがら逃走。逃げ切れなかった兵は長江に飲まれ、溺死者は一万に及ぶ。戦場に残されたのは、六千艘もの奪い取った船だった。
孫策は戦後、朝廷への奏上でこう記している。「身を馬に跨がせ、急鼓を打ち、士気を一つにした。吏士は心を奮い、倍の力を発揮した。火は上風に乗り、煙は下へ流れ、矢は雨のごとく降り注ぐ。これぞ驚心動魄」。
その報を受けた曹操は、「あの猘児(けものご)とは、容易に競えぬな」と漏らしたという。 江東の若き獅子が、本物の猛獣であることを天下に示した戦いであった。
虞翻の説得と江東六郡の平定
沙羡で黄祖をボコボコにした孫策は、「この勢いのまま、もう一歩だ」とばかりに東へ進み、豫章の椒丘に陣を構えた。
そこで彼は虞翻に向かって、やや芝居がかった口調で言う。「華歆は名声こそ立派だが、中身は飾り棚の壺みたいなものだ。立派に見えても中は空っぽだ。今のうちに降れば穏やかに済むが、太鼓が鳴って矢が飛び交えば、田畑も人もぐちゃぐちゃになる。さあ、先に城へ行って私の言葉を伝えてこい」。
虞翻は「また無茶ぶりを…」と思いながらも任務を受け、豫章太守・華歆と面会。冷静に利害を説き、最後は「まあ、降りたほうが身のためですよ」と笑みを添えると、華歆はあっさり城門を開いた。
こうして孫策は豫章郡と廬江郡を丸ごと手に入れ、ついでに豫章の一部を切り分けて庐陵郡を新設。既に手中にあった呉・会稽・丹楊と合わせ、江東六郡を完全制覇する。
その後の人事も、彼らしい抜け目なさだ。本籍迴避制で呉郡人は呉郡太守になれないため、自ら会稽太守を兼ね、丹楊に舅の呉景、豫章に堂兄の孫賁、庐陵に孫輔、呉郡に老将の朱治、廬江に李術を配した。
さらに張昭・張紘・秦松・陳端を参謀に据え、周瑜を巴丘に置き、孫河や孫静ら一族を各地に散らす。太史慈は建昌都尉として海昏を守り、劉磐と黄忠の侵入を封じた。
わずか三、四年で千里を駆け抜け、六郡を掌中に収めたのは、武勇だけでなく、この”人事のパズル名人”としての才覚あってこそだった。
孫策最期の託宣:江東を託された若き二弟
建安五年(200年)、曹操と袁紹が官渡で対峙し、天下は大きく二分されていた。
孫策はこの情勢を見据えつつも、江東で着々と兵を整え、さらなる飛躍を狙っていた。
しかし、運命は非情である。
同年四月、丹徒での狩猟の最中、孫策は駿馬を駆って鹿を追ったが、そのあまりの速さに護衛が遅れた。その瞬間、かつての仇敵・許貢の門客三人が茂みから飛び出し、孫策を襲撃。激しく応戦するも重傷を負った。
傷は深く、やがて命の炎が弱まっていく中で、孫策は側近たちを呼び寄せ、二弟孫権を病床に招いた。
彼は言う。「今や中原は乱れ、江東を守るだけで十分に天下を渡り歩ける。そなたらは二弟をよく助けよ」。そして張昭には、「もし仲謀(孫権)が大任を担えぬ時は、そなたが代わりに治めよ」とまで託した。
さらに孫権の手に印綬と兵符を握らせ、「二陣に並び天下を争う胆力はお前には及ばぬが、人を用い、その才を尽くさせて江東を守ることにおいては、私より優れている」と静かに語った。二十六年の短い生涯、その最期をもって江東の未来を託した瞬間だった。
同夜、孫策は息を引き取った。張昭は直ちに朝廷に報告を上げ、郡県へも布告。将校や官吏に職務を守らせ、江東を混乱から守った。
長兄を失った悲しみに沈む孫権は、日々床に伏して涙を流していたが、張昭は彼を叱咤した。「継ぐ者の務めは、先人の遺業を大きくすることだ。天下が乱れる今こそ立ち上がれ」。自ら馬に扶けて軍営を巡らせたことで、人心は再び孫権に帰した。
こうして、江東は新たな若き主のもと、再び前へと歩み始めたのである。
人物評:江東を駆け抜けた若き覇者の光と影
張紘は「才略は並外れ、三郡を平定した」と称賛し、朱治も「宗室随一の栄誉」と讃えた。虞翻は「智略は世を超え、兵を使うこと神の如し」と高く評価した一方、郭嘉は「軽率で備えがなく、刺客一人で倒せる」と手厳しい。王朗も「勇は世に冠すが、天下の賊となる」と危ぶんだ。
袁術は「孫郎のような子がいれば死んでも悔いはない」と絶賛し、許貢は「項羽に似た驍雄、放てば世の災い」と警告した。傅玄は「父の仇を討ち、江南を制した勇は天下に冠す」と評し、孫盛は「創業の主だが、漢への忠義は疑わしい」と分析。陸機は「若くして英才を示し、賢臣を用いた」と述べ、《呉録》は「自分より優れた者を嫌い、知らぬと答えるのを好んだ」と記す。
後世でも評価は割れた。毛宗崗は「戦場で得たが君主の器に欠けた」とし、何去非は「武略に優れたが早世を惜しむ」と述べる。
蔡東藩は「袁術が彼を活かせなかったのが敗因」と論じ、盧弼は「十七歳で父を失い、二十六歳で没するまでに大業を築いた真の豪傑」と断じた。
謝采伯は「英気はあれど油断が命取り」とし、王懋竑は「文臣を師友として用いた」と評価。詩人や文人は、その英雄性と悲劇性を詩歌に託し、項羽と並び称する者もあった。
容姿端麗で闊達、用人に長けた一方で、軽躁さが早すぎる終焉を招いた。疾風のように現れ、疾風のように去った小覇王は、その短い生涯で江東六郡を掌中に収め、後の呉の礎を築いたのである。
参考文献
- 参考URL:孫策 wikipedia
- 《三庚志》
- 《三國志·呉書一·孫破虜討逆傳》及裴松之注
- 《江表傳》
- 《後漢紀》
- 《魏略》
- 《虞翻傳》
- 《程郭董劉蔣劉傳》
- 《語林》(東晉 裴啟)
- 《宋書》卷16
- 《資治通鑑》
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