【1分でわかる】周瑜:江東建国の功臣、赤壁の火攻と天下二分の計【徹底解説】

周瑜

1分でわかる忙しい人のための周瑜(しゅうゆ)の紹介

周瑜(しゅうゆ)、字は公瑾(こうきん)、出身は廬江郡舒県、生没年(175年~210年)

後漢末期に活躍した呉の名将であり、軍事・政治・文化のすべてに通じた智勇兼備の人物である。
若くして孫策と意気投合し、共に江東を平定。孫策の死後は孫権を支えて呉の基盤を固めた。
建安七年(202年)には曹操の人質要求に反対し、呉の独立方針を確立。
建安十三年(208年)の赤壁の戦いでは三万の兵で曹操の大軍を火攻で撃破し、三国鼎立の礎を築いた。
その後、南郡を攻略して荊州の要地を掌握し、さらに蜀を制して天下を二分する「天下二分の計」を献じた。
音律にも通じ、「曲に誤りあらば周郎顧みる」と称された逸話を残す。
建安十五年(210年)、西征準備中に巴丘で病没。享年三十六。
孫権はその死を深く悲しみ、「公瑾なくして孤は帝たりえず」と嘆いたという。

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周瑜を徹底解説。江東制覇から赤壁の火計、南郡奪取と「天下二分の計」の遠謀

高官名門の家系と教養・音律の素養

周瑜は、もともと官僚の系譜に生まれた一枚札である。
祖父の周景は太尉に上りつめた清廉の星、ついでに李膺や荀緄を見出した先見の明もある名宰相。
叔父の周忠も太尉を務め、父の周異も洛陽令を務めており、地位と教養がDNAに組み込まれたような一族である。

当然ながら周瑜自身も聡明で、顔もいい。ここまではよくある「よき家に生まれた、よき青年」だが、彼にはもう一つ、特筆すべきスキルがあった。
それが音楽である。しかも趣味の範疇を軽く超え、酒席で琴の一音が狂えば即座に振り返る。
これを「曲に誤りあらば、周郎これを顧みる」と後世は称し、のちに周郎顧曲という美称として独り歩きすることになる。

この時代、戦を語らず風雅を語る者は風流人か無用人のどちらかだが、周瑜は例外だった。音を愛し、知を纏い、剣も抜ける。これで家柄までついてくるのだから、江東が惚れたのも無理はない。
まさに、音と知と剣を兼ね備えた、三拍子揃った完璧な貴公子。そんな男が、このあと本気を出して火をつけ始める。

孫策との総角の交わりと同居生活の開始

初平元年(190年)、董卓討伐のために孫堅が挙兵すると、その家族は寿春から舒城に移った。
このとき周瑜は、同じ年に生まれた孫策の名声を聞き、その人物を確かめようと訪ねた。
初めて対面した二人はすぐに意気投合し、互いに敬愛の情を抱いた。

周瑜は孫策一家に自邸の南宅を貸し与え、孫策の母にも礼を尽くしてもてなした。
両者は生活を共にし、兄弟のような情を交わすようになり、その絆は「総角の交わり」と呼ばれるほどであった。
その後、周瑜の叔父である周尚が丹楊太守に任ぜられると、周瑜はこれに随行して任地へ赴いた。
この頃からすでに、二人は江東の将来を共に担う同志として歩み始めていた。

丹楊赴任と袁術麾下からの離脱

興平二年(195年)、孫策は父・孫堅の遺志を継ぎ、自らの兵を率いて江東を平定せんとする決意を固める。
だが、理想と兵糧は別物で孫策は周瑜に一通の書を送り援軍を乞うた。 すると、返事より早く本人が五百の兵を率いて現れ、孫策は感動して言ったという。 「卿を得て事成れり」思わず会社案内パンフレットに載せたくなる名セリフである。

周瑜の加入で、軍は勢いづき、横江、当利、秣陵と次々に攻略し、笮融・薛礼・劉繇といった江東勢力をまとめて撃破する。 江東は、若き二人によって軽やかに染め替えられていった。
その途中、孫策は山越討伐に向かい、周瑜には丹楊の守備を任せた。 しかし、政治というのは背後から矢が飛んでくるものである。
まもなく袁術が弟・袁胤を丹楊太守に任命すると、周瑜は叔父の周尚とともに寿春へ身を引いた。

袁術はこのとき、周瑜を気に入り引き留めようとした。確かに人を見る目はあった。ただし、自分の器の浅さには気づいていなかった。
周瑜は「居巣県長に就任してよろしいですか」と丁寧に言い、心では「この人についていっても、たぶん破産する」と判断していた。

居巣での期間、短くも収穫はあった。そこで出会ったのが魯粛である。
周瑜は彼を一目で「只者ではない」と見抜き、糧食を求めたところ、魯粛は二つの倉のうち一つを即断で提供した。
大抵の人間なら「この恩は忘れんぞ」となるが、周瑜は「この人は非常の士なり」感動して言い、互いに深い信頼を結ぶこととなった。

こうして周瑜は袁術から離れ、再び孫策のもとへと舵を切った。 名士には、選ぶ器がある。皿が割れる前に、さっさと席を立つのが本当の見切りというものである。

孫策と再合流、二喬の婚礼

建安三年(198年)、孫策は再び周瑜を迎えた。 自ら出迎えて厚く礼を尽くし、建威中郎将の位を授け、兵二千、馬五十、鼓笛隊、しかも館舎はフルリノベーション済み。 他の将に比べて群を抜いていた。もはや他の将との待遇差は「君は賃貸、周瑜はタワマン」レベルである。

孫策は人前でこう言った。 「周公瑾は英俊異才、幼き頃より我と交わり、共に青雲の志を抱いた。丹楊での功も忘れてはならぬ、これはまだ報いの一部にすぎん」 この言葉が示すように、孫策は周瑜を心から信頼し、戦友以上、家族未満。いや、もうほぼ家族だった。

このとき、周瑜はまだ二十四歳で、容姿端麗、才気煥発、「周郎」と親しみを込めて呼ばれた。
そして、この周郎と孫郎は、皖攻略戦で橋公の二人娘「大喬・小喬」を娶り、二人は義兄弟の縁を結んだ。
孫策は戯れながらこう言ったという。 「橋公の娘たちは戦乱に苦しんだが、今や我らが婿だ。きっと喜びもひとしおだろう。」

劉勳・江夏・豫章・廬陵への転戦と巴丘鎮守

建安四年(199年)ごろ、孫策の命に従い荊州方面への軍事行動に参加した。
まずは尋陽付近で劉勳を撃破し、間髪入れず江夏へ進軍、ついでに豫章・廬陵の諸郡も平定した。
地図で見れば東から南へ、そしてまた北西へ駆け巡り、江東南部の秩序ははおおむね片付き、次は守備よろしく!となった。

孫策は周瑜を中護軍・江夏太守に任じ、巴丘に常駐させた。
巴丘とは、洞庭湖の南岸位置し、荊州と江東を結ぶ、いわば軍事上の要衝である。 ここを守るというのは、裏を返せば「ここを落とされたら終わり」ということでもある。

周瑜は淡々と、しかし完璧にそこを守った。
兵は整然、統率は盤石、内政にも隙なし。 そしてこの巴丘駐屯こそが、のちの孫呉政権の安定を支える基礎工事となった。

孫策の死と孫権輔佐の開始

建安五年(200年)、孫策が突然の襲撃に倒れた。
彼は息を引き取る間際に、弟・孫権に全てを託し、周瑜をはじめとする宿将たちに支援を命じた。

周瑜はすぐに兵を率いて葬儀に参列、儀を尽くしただけでなく、そのまま呉に残って中護軍として政務を掌握。
張昭と二本柱となり、新体制を立ち上げる「臨時取締役会」を開催した。 まだ若き孫権は会稽太守という肩書きだけの青年で、周囲も半信半疑だったが、周瑜はそんなことはお構いなし。 即座に形式を整え、「君臣の礼」を敷き、組織としての体裁をキッチリ固めた。

軍政のトップに座るのが「武将 周瑜」ならば、秩序を築いたのは「政治家 周瑜」。
江東が孫権体制として揺るがず続いたのは、間違いなくこの時期の周瑜あってこそだった。

人質外交を蹴って、孤と南面する覚悟を決める

建安七年(202年)、曹操が北方の雄・袁紹を蹴散らし、ついに河北を平定した。
勢いに乗る彼が次に送ってきたのは、刃でも兵でもなく、一枚の書簡だった。
内容はシンプルに「お前んとこの子、預かってやるからよこせ。」
孫策亡き後の江東政権を侮った外交だった。

孫権が群臣を集めて意見を問うと、張昭・秦松らはお決まりの「ここは服従こそ安泰、世を忍ぶ時機にございます」というセリフを繰り出した。
そんな中、ただ一人、周瑜は毅然として反対の立場を取った。
「国の大小ではない。賢君の有無が国の命運を決める。今この江東は、地の利も富も兵も民意も揃っている。この状態で『子を送る』など、敗戦国のまねごとにすぎぬ。 一度人質を送れば、命令には逆らえず、南面して孤(諸侯)を名乗る(君主として独立して統治する )ことすらできなくなる」

さらに呉夫人(孫権の母)も加勢した。 「公瑾は伯符(孫策)と同じ年の生まれ、ほんの一月の違いしかない。私は我が子のように思っている。お前は兄のように彼を敬いなさい」 この一言が決定打となり、孫権は人質送付を拒否。
江東は独立国家としての道を、ここに正式に歩み出した。

北の覇者が「預かろう」と手を伸ばしたそのとき、南の若君とその参謀は、「いいえ、結構です」と微笑んで、首を振ったのだった。

黄祖討伐

建安十一年(206年)、周瑜は孫瑜と連携し、麻・保の賊を一掃。首領を斬り、捕虜は一万余人を獲得した。
その後、黄祖は配下の鄧龍を柴桑に差し向け、威勢を見せにきたが、これは悪手だった。 周瑜は即座に出撃し、鄧龍を捕まえて呉に送還した。

そして建安十三年(208年)、いよいよ父孫堅の仇、黄祖討伐の火ぶたが切って落とされる。
孫権自ら出陣し、周瑜は前部大督として先鋒を任された。
実際は「全部まとめてよろしく」というポジションである。 江夏の戦いは激戦となったが、周瑜軍は見事に黄祖を撃破。
黄祖は命からがら逃げ出し、江夏の地はあっけなく呉の手に落ちた。

この勝利によって孫権政権は長江中流域に確かな足場を築く。
黄祖討伐とは、すなわち長江に残った最後の雑草を根こそぎ引き抜いた戦であった。

赤壁前夜の主戦論と情勢分析

建安十三年(208年)、劉琮が降伏したことで曹操は荊州をあっさり平定し、荊州の水軍を手に入れた。 数十万の兵とともに南下し、いよいよ江東へ牙を剥いてきた。 孫権はただちに群臣を集め軍議を開いたが、会議室の空気は重かった。

張昭を筆頭に文臣たちは「曹操は天子を奉じておる。 これに逆らえば逆賊の汚名を着ることになる。ここは降るが吉」と降伏を勧める。

ここで彼が立ち上がった。周瑜は毅然と主戦論を唱えた。
「曹操は漢の相を語るが、実際は漢の賊である。 将軍(孫権)は天与の雄、江東には兵糧も兵も十分なのに、なぜ我らが家に火をつけられて、黙って降らねばならぬのか?」

そして、敵情分析を始めた。
1.北方は未だ安定せず、馬騰・韓遂が背後に控える。
2.北方兵は陸戦に慣れていて水戦に不慣れである。
3.寒気と補給難で、衣糧・馬草が欠乏している。
4.疫病多発。水土不服、つまり風邪ひいてる。
「これはもう、向こうから滅びに来てるようなもんです」 と結論づけた。

周瑜は「精兵三万いただければ曹操を破ってご覧にいれます」と提案。
孫権は刀を抜き、机を真っ二つに斬って一言。
「降伏とか言うやつは、この机と同じ運命だ。」
軍議は主戦へ転じ、周瑜は左都督に任命され、 程普と並んで赤壁戦線の司令塔となる。 魯粛は外交担当として劉備との連携もここで決まり、長江の風向きは変わった。

赤壁は、まだ始まってすらいない。だが、戦局はここで動いた。
「主戦か降伏か」この軍議で揺れた天秤を、周瑜は一言で叩き落としたのである。

なお裴松之は「主戦の策は、もともと魯粛が孫権に献じたもの」と注釈している。 周瑜は当初鄱陽におり、呼び戻されてから魯粛と密かに意見を合わせたという。 魯粛が先に謀を立てたことを一切言及していないのは、魯粛の功を奪っている疑いがある。 と書いている。

蒋幹、説得しに来て説き伏せられるの巻

赤壁決戦の足音が近づく中、周瑜の名声と才能を聞きつけ曹操は思った。 「あの周瑜、口説ければ天下も近い。」 そこで彼が送り込んだのが、同郷つながりという安易な人選で、選ばれたのは九江の蒋幹。 命じられた彼は葛巾をかぶり、布衣をまとい、「これは旧友に会いにいくだけ」と自分に言い聞かせながら江を渡った。

周瑜は迎えるや否や、立ったままピシャリと言った。 「子翼(蒋幹の字)よ。おぬし、遠く江を越えて曹氏の説客となったか。」 蒋幹は「いやいや、ただの旧交訪問で、お茶でもどうか。」と笑ってごまかす。 周瑜は柔らかく笑った。「我は夔(き)にも師曠(二人とも古代の伝説的な音楽家)にも及ばぬが、弦の音を聞けば心の曲を知る。」 つまり「嘘は心音で分かる」と釘を刺した。

だがその後のもてなしは、むしろ過剰だった。三日三晩のフルコース接待で、倉庫、兵舎、武具の展示に、侍女の衣裳と珍品コレクションまでお披露目し、こう宣言した。 「男子たるもの、己を知る主を得て、義を内に、忠を外に抱く。もはや蘇秦や張儀の百舌も、我を動かすには軽すぎる。」
蒋幹はその間、ずっとニコニコ笑ってはいたが、何も言えなかった。

帰ってから曹操に言ったことといえば「あれは無理です。」と、「度量が高くすごいです。」だった。 中原の士たちも、このことで周瑜を高く評価した。
成果もなく、敵将を褒めただけで、何のために行ったのかわからなくなった蒋幹。
彼の以後の記録は残っていない。 もしかしたら、曹操の逆鱗に触れて処罰されたのかもしれない。

赤壁の戦い、火攻と追撃の完勝劇

建安十三年(208年)冬。曹操を周瑜と劉備の連合軍が待ち構え、両軍は赤壁で対峙した。 ただし、曹操軍の中身は水戦不慣れな北方兵+疲労+疫病のおまけつき。兵の士気はもはや舟底より低かった。

そんな時、腹の据わった黄蓋が提案する。「曹操の船は数百艘を連ねて碇泊しており、火を放てば勝利も確実。こちらから降伏するフリをして、火船で突撃してはいかがでしょう」 周瑜はこれを採用し、黄蓋に詐降の計を任せた。

黄蓋は降伏書を曹操に送り、信を得ると、薪草と膏油を満載した蒙衝・闘艦数十隻を赤幔で覆い、降兵を装って北岸へと進めた。
東南の風が烈しく吹く中、黄蓋は火を放ち、同時に火船を突入させた。
燃え上がる炎と風が曹操軍の船団・陣営を瞬く間に焼き尽くし、煙炎は天を焦がした。
曹操軍は大混乱に陥り、人馬ともに炎上・溺死する者が続出した。

曹操は敗走して江北へ退き、周瑜と劉備はこれを追撃した。
曹操は江陵に曹仁らを残して北へ逃れた。
この戦い、すなわち「赤壁の戦い」は、中国史上屈指の火攻の戦例となり、孫劉連合軍はこの勝利によって曹操の南進を完全に阻止した。 ここに三国鼎立という泥沼ゲームの初期設定を完了させたのである。

南郡攻略戦、流矢負傷

建安十四年(209年)、周瑜と程普は南郡奪取を目指し、長江を挟んで江陵を守る曹仁軍とにらみ合った。

先鋒には甘寧を夷陵へ派遣したが、案の定、曹仁は兵を割いてこれを包囲する。 甘寧から「助けてくれ」の急報が届くと、周瑜は呂蒙の進言を容れて、凌統に守備を託し、自ら呂蒙とともに夷陵へ駆けつけた。 華麗な動きで敵を蹴散らし、甘寧を救い出すや、今度は北岸へ渡って曹仁軍と激突する。 その闘いの中、右脇に流矢を受けて深手を負った。

この知らせに曹仁は小躍りし「もう立てまい」と思ったか、総攻撃を仕掛けてきた。 だが、病室ではなく、馬上に周瑜がいた。 軍営を巡りながら将兵を激励し、毅然たる態度で「我健在なり」と示した。
この姿勢に曹仁はたじろぎ、渋々撤退を決断したのである。

その後一年に及ぶ戦線の末、ついに南郡・江陵は呉の支配下となった。 孫権は周瑜を偏将軍に任じ、ついでに南郡太守の地位も与えた。 こうして、江南と荊州を結ぶ支配体制が築かれ、呉の勢力は長江中流域にまで押し広げられた。

劉備処遇策の不採用

建安十四年(209年)から翌十五年(210年)にかけて、劉備は公安に拠点を構え、呉と同盟関係を維持しつつ、しれっと荊州の一部を領有した。 この間に劉琦が死亡し、配下に推挙された劉備は左将軍・荊州牧を自称し、公安に拠点を置いた。
荊州統治を容認してもらうため呉に訪れた劉備が京口で孫権に謁見した際、周瑜は上疏してその野心を警戒した。
「劉備は一見人当たりの良い君子風だが、器の内は梟雄。部下もまた熊虎のごとき猛将。 音楽と美食で骨抜きにし、屋敷で飼ってしまいましょう。関羽と張飛はバラバラにして我が軍に組み入れ用いれば、大事を定めることができましょう。 だが今、この三匹に土地を与えれば、もはや龍を海に放つも同然。再び手元には戻りません。」

しかし孫権は「曹操が健在な今は、英雄と結ぶべき時」と応じず、劉備との友好を継続する。 かくして周瑜の進言は却下され、劉備はのびのびと荊州から益州へ勢力を伸ばしはじめた。 周瑜の憂慮は現実となり、後に荊州を巡って、呉と蜀がとより奪われる遠因となった。

天下二分の計と西進構想

建安十五年(210年)、南郡を手中に収めた周瑜は、江陵に腰を落ち着けていた。 が、彼の目はすでに視野はすでにさらに西へと向けられていた。
じっとしていれば天下は来ない。ならば、自分から歩み寄るまでだ。

北では曹操が赤壁の火傷から立ち直りかけ、足元には馬超・韓遂の砂利石が転がっていた。 西では蜀の劉璋が、ふんわりと玉座に座ったまま何も決められず、張魯に国境をちくちく攻められていた。 この情勢を見た周瑜は、ついに天下二分の青写真を孫権に上奏する。

「曹操は新たな敗北の傷を癒やし得ず、北はぐらついています。 西の蜀は劉璋という素人で、張魯に殴られ放題です。今こそ兵を挙げて西の蜀を攻め、張魯を併せ、さらに西涼の馬超と連携すれば、 我が軍は襄陽を拠点として曹操を圧迫し、北方を制することができましょう、この計をもって天下を二分できます。もちろん名目は『漢室を輔けるため』です。」 孫権はこれに頷き、周瑜に出陣準備を命じた。

周公瑾、三十六にして退場す

建安十五年(210年)、天下を二つに計を上奏したのち、江陵へ戻り計画を現実にすべく準備に取り掛かった。 だが、歴史というものは計画書を読まない。周瑜はその途上、巴丘で病を得て倒れ、そのままこの世を去った。 享年三十六。龐統がその霊柩を呉まで送り届けている。

訃報が呉に届くと、孫権は悲しみのあまり喪服をまとい、涙で前が見えぬほどの礼をもって弔ったという。 葬儀の費用はすべて公費。道ゆく者は皆、肩を落として嘆いた。かつての「周郎」が去った喪失感は、江南の風景にすら翳りを落とした。 その後、孫権は「周瑜や程普の交友関係を詮索するな」とわざわざ命令を出し哀悼の念を示した。

周瑜は妻・小喬の間に二男一女をもうけた。長男・周循は騎都尉となるも早世し、次男・周胤は都郷侯に封ぜられるも後に罪を得て流罪になっている。 娘は孫権の太子・孫登に嫁ぎ、名家の血筋を政略に組み込まれた。 甥の周峻も武将として名を成し、しっかり「周家ブランド」を江東に刻み込んでいる。

だが、それらすべてを足しても「周瑜本人」の存在感には及ばない。 彼の死は、呉にとって最大の損失とされ、後世までその名声は衰えなかった。

周瑜の逸話

君臣の礼

周瑜は若き日より孫策と親しく交わり、孫策の母・呉太妃は、弟の孫権にこう告げたという。 「公瑾は兄と見なして接しなさい」。 この一言は、周瑜を単なる家臣以上の存在に位置づけるものであり、孫権も以後、周瑜に対しては常に礼を正し、節を守った。 諸将や賓客に対してはまだ若さゆえの粗雑さがあった孫権も、周瑜の前では自ずと姿勢が正されたという。

程普と遂共不睦

周瑜は、温和にして寛容、肚の大きさは海原のごとしと評され、多くの人望を集めていた。 ただひとり、程普とは、どうにも折り合いが悪かった。 『江表伝』によれば、程普は「年長者」としてのプライドから周瑜を軽んじる言動をたびたび取ったが、周瑜は終始おだやかに応じ、決して言葉で返すことはなかった。 やがて程普は自らの狭量を恥じ、周瑜を心から敬愛するようになったという。 「周公瑾との付き合いは、醇醪(じゅんろう)を飲むようなもの。気づけば深酔いしている」。 この言葉は、彼の人柄がじわじわと周囲の心を掴んでいったことを物語っている。

劉備も認めた才能

あるとき、劉備が江東を離れる際、孫権は飛雲の大船にて盛大な宴を設け、張昭・魯粛ら十数人を従えて送別した。 一同が席を辞した後も、孫権は劉備を引き止め、酒の勢いも手伝って本音を吐露したという。 「公瑾は万人に勝る才を持つ。だがその器はあまりに大きく、とても人臣の位に収まるまいと思うことがあるのだ」。 それは恐れであり、惜しみでもあり、また一種の嫉みすら含んでいたかもしれない。

曹操の負け惜しみ

赤壁で敗れた曹操は、しばしば周瑜を名指しで語った。 「疫病のせいで退いたに過ぎぬ、私自ら船を焼いて引いたのだ」と強がりを見せつつも、 「結果として、周瑜に虚名を与えてしまった」と筆を滑らせているあたり、その敗北がどれほど堪えたかがうかがえる。

史家と後世の評価

周瑜については、同時代および後世の史家・文人たちがそれぞれ異なる観点から評している。

巴丘で周瑜が病没したとき、孫権は涙を拭いきれず、こう叫んだという。 「公瑾には、王を支えるだけの器があった。なぜ、いまこの時に…」 後に自らが帝位に就いた際には、重臣たちの前でこうも語った。 「もし周公瑾がいなければ、私は皇帝にはなれなかった」 それは、臣下の功を記す言葉として、極めて稀有な賛辞である。

『三國志』の陳寿は次のように述べている。
「曹操は漢の丞相の地位を利用し、天子を擁して諸侯を討伐し、荊州を平定してその威を東方に及ぼした。そのような混迷の時代において、周瑜と魯粛は迷うことなく明確な判断を下し、他の人々をはるかに超える見識を示した。まことに並外れた才能の持ち主である。」

同時代の王朗は「周公瑾は江淮地方における傑物であり、意気盛んに軍を率いた将軍である」と述べ、その勇ましい風姿と実行力を讃えている。

西晋の陸機は周瑜を高く評価し、次のように記している。
「法を正し軍を整えれば、その威徳は盛んに輝く。
名士を礼遇するには張昭がその雄であり、豪傑と交わるには周瑜がその傑である。
この二人はいずれも聡明で見識が広く、志を同じくする者が自然とそのもとに集まった。
江東が人材に恵まれたのは、まさにこのゆえである。」
さらに「周瑜・陸公(陸遜)・魯粛・呂蒙らは、政事においては孫権の腹心、戦場ではその両腕のような存在であった」とも述べている。

東晋の史家・習鑿齒(しゅうさくし)は『周魯通諸葛論』の中で、やや批判的な見方を示している。
彼は「周瑜と魯粛はともに才能ある人物だが、真の『君子』とは言い難い。
なぜなら、君子の道とは帝室を扶け、名教を尊ぶことであり、もしそれが叶わぬならば、農に帰って世を避けるべきである。漢室がすでに滅びた後に孫氏に仕えるのは、真の忠義とは言えない」と述べ、儒家的な倫理観から周瑜を批判している。

一方、同じ東晋の袁宏は『三國名臣頌』で周瑜を称賛し、こう書いている。
「公瑾は群を抜く卓越した人物であり、その志は凡俗にあらず。若き日に主君を見抜き、孫策と心を通わせ、晩年には赤壁で奇策を放ち、天下三分の基を築いた。惜しむらくは寿命が短く、その志は量り知れない。」

宋代には武廟六十四将に数えられている。

すべてを持ち合わせていた周瑜に、もし一つだけ欠けていたものがあったとすれば、それは寿命の長さだった。 孫策と共に描いた天下の夢、その続きを見ることはできなかったが、彼の生涯は烈火のように燃え上がり、烈火のように散った。だがその炎は消えず、呂蒙や陸遜といった怪物たちが現れ、江東の物語はなおも続いていく。

参考文献

周瑜のFAQ

周瑜の字(あざな)は?

字は公瑾(こうきん)です。

周瑜はどんな人物?

周瑜は寛大で礼節を重んじ、人に謙虚に接する人物でした。音楽の才にも秀で、戦略にも長けた智将です。

周瑜の最後はどうなった?

建安十五年(210年)、蜀侵攻準備の途中で巴丘にて病没しました。孫権は深く悲しみ、素服で弔いました。

周瑜は誰に仕えた?

孫策・孫権の二代に仕え、呉の軍政を支えました。

周瑜にまつわるエピソードは?

赤壁の戦いで火計を成功させ、曹操の大軍を破ったことが最も有名です。

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