【1分でわかる】徐翕の生涯:呂布に走った裏切り者が郡守になれた理由【徹底解説】

一般武官

1分でわかる忙しい人のための徐翕の紹介

徐翕(じょきゅう)、字は不明、出身不明、生没年不詳
東漢末期、曹操の配下として将軍に任命される。
建安四年(199年)、兗州の動乱に際し、毛晖と共に呂布に呼応して反乱を起こす。
呂布の敗北後、泰山の軍閥・臧覇に亡命。
臧覇が曹操に帰順した際、曹操は二人の首級を要求したが、臧覇はこれを拒否。
劉備を介して臧覇の言を聞いた曹操は感服し、徐翕と毛晖を郡守に任命した。

↓↓↓もっと深堀したい人は↓↓↓

徐翕を徹底解説!呂布に走った裏切り者が郡守になれた理由

曹操を裏切り呂布についた男:徐翕の叛乱と流浪

東漢末年の乱世、将軍という肩書きがいかに不安定な座だったかを示す好例が、徐翕のケースである。
建安四年(199年)、曹操は兖州を拠点に勢力を固めていたが、その一角で反乱が起きる。
このとき徐翕と毛晖は曹操の命を受けて将軍に任じられていた──にもかかわらず、ふたりは呂布に呼応し反旗を翻す。
このあたりの軽さ、もはや人間関係のSNSブロック並みにあっさりしている。

とはいえ、呂布という選択がまずかった。彼は戦上手ではあっても統治には向かず、兗州の支配は長く続かない。
結果、呂布が潰えたのち、徐翕と毛晖は行き場を失う。ふたりが頼ったのが、徐州・泰山を拠点とする武将・臧覇だった。
臧覇は義に厚く、かつて敵方にいた二人を見捨てず庇護する。その判断が、のちに小さな奇跡を呼ぶ。

義に殉じた臧覇と、許された反逆者たち

兖州を平定した曹操は、臧覇が帰順すると聞き、喜ぶと同時に条件を出した。「徐翕と毛晖の首を持ってこい」と。
普通なら、これは拒否できない命令である。なにせ相手はその時点で事実上の中原の覇者。
だが臧覇は一計を案じる。劉備を通じて曹操にこう伝えさせた。「私は人を裏切らず今日までやってこれた。この命令には従えません」
さらに、「義を重んじる王者なら、威圧ではなく仁で人を導くべきです」とまで言い切る。これはただのお願いではない、理をぶつけた真っ向勝負だった。

これに対する曹操の反応がまた異様だ。怒るどころか、「これは古人の仁徳であり、まことに見事である」と深く感心。
そして、徐翕と毛晖は処罰されるどころか、郡守として任命される。裏切り者が一転して行政官へ──この展開はさすがに予想外だったろう。
以後、臧覇は精鋭を率いて曹操のために青州を守り、彼が袁紹と相対する戦いに専念できた背景を支える一角となる。
つまり、徐翕の赦免は臧覇の義と、曹操の寛容、そしてその裏にある現実的な計算が絡み合った産物だった。

※毛晖と全く同じ文章です。

参考文献

関連記事

コメント

タイトルとURLをコピーしました